2006-11-20 Monday
いもうと

                              バーミヤン
 
 インドを旅したのは昭和48年8月だった。ボンベイからマンマド(Manmad)、オーランガバード(Aurangabad)、ジャイプール、アグラ、デリー、アラハバード、ベナレス、サールナートなどをコンパートメント付きインド鉄道を利用する旅で、夜は列車の中、朝食はコック兼給仕が部屋まで運び、食べ終わったころ最寄りの駅に到着するという按配だ。
早朝、オーランガバード駅で降り、エローラとアジャンタの両石窟を見てマンマドで待機している列車に戻る。アラハバード駅で降り、カジュラホ・カンダーリア寺のエロティック彫刻を撮影してベナレスに行き、翌日はベナレスの北5、5qのサールナート観光といったぐあいである。
 
 インド旅行に参加した面々は主に学生で、特に成蹊大学の学生が多かった。コンパートメントはトイレ&シャワー付きの二段ベッドで、下のベッドにいたのは横浜国大の大学院生だったと記憶している。当時インドへ旅する人たちのほとんどがそうであったように、古代文化とインド特有の神秘への憧憬に惹かれてやって来たのだ。そしてインドは彼らの期待を裏切らなかった。
エローラ、アジャンタの窟院を見学し終わるころには仲のよい者同士が小グループになり、昼食や夕食のテーブルを同じくするようになった。私は特にだれと行動を共にするというわけでもなかったが、旅慣れたようすというのは自然と相手に伝わるもののようで、いつの間にか三、四歳年下の女子学生が数人あつまってきた。成蹊、成城、跡見の各大学に通う面々であった。
 
 いまにして思えば、なぜ彼女たちが夕食後も頻繁に私のコンパートメントを訪ねてきては話を聞きたがったかよくわかる。私はインドの話をしたのではなかった。前年のアフガニスタン旅行の話をしたのである。インド鉄道の車内でインド以外の話を連日深夜までして、飽きない魅力がアフガニスタンにあった。真っ黒に日焼けし、アフガン千夜一夜を語る私の風貌と語り口は、アフガニスタンの少数民族ハザラ族が語っているかのごとくであったのだろう。ハザラとは言っていないが、「お兄ちゃん、アフガニスタンの人みたい」、そう言ったのは成蹊のKSさんだった。
 
 彼女ら三人は私のことを私の姓ではなく、お兄ちゃんと呼んだ。そして私は、ほかの二人の女性は姓で呼んだが、KSさんだけは単に「いもうと」と呼んだ。「いもうと、こっちおいで」とか、「いもうと、眠そうな目してるよ、さっさと自分の部屋にもどんなさい」とか。
 
 私の話の概容はというと。
 
 アフガニスタンはサハラ砂漠や鳥取砂丘と違って岩沙漠で、その延々と続く赤茶色の岩沙漠の中に忽然と現れるサファイア・ブルーやエメラルド・グリーンの神秘的で美しい五つの湖バンディ・アミール。玄奘が「大唐西域記」に、極彩色に彩られた巨大な二柱の大仏と記したバーミヤンの石仏。十月のバーミヤンのすさまじい昼夜の温度差。日中は30℃、深夜から明け方はマイナス20℃になり、夜中に渓流は凍結する。
 
 バーミヤンまでの長い道のり。ゴルバンド峡谷の川の両岸の、どこで終わるのかと思うポプラ並木の背の高さ。西に傾きかけた日がポプラの一枚一枚の葉を照らし、ちらちら耀く黄金色のえもいわれぬ美しさ。夕暮れ、オレンジ色の空の、谷と空を隔てる稜線で薄紅色と水色に染まり、空一面が大きなパレットになってラベンダー色、藤色、ミスティブルー、桜色、茜色になり、それらの色が微妙に混ざり合い、ついには溶けるように濃い藍色におおわれてゆく色の変化。夜の深淵(しじま)の底知れぬ深さ。バーミヤン。
 
 十月という秋から冬へ向かう季節。何千頭もの羊をひきつれ、牧草の生い茂った暖かい土地を求めて大移動するキャラバン。どどっとわきおこる大音響、さかまく砂塵。マケドニアのアレキサンダーの血を継承しているという毅然たる態度。夜明けとともにはじまる祈りの、心にしみいる美しい響き。その祈りの声を聞きたさに、夜明けに起きてはじっと耳をすましていた。
ヘラートのタフティ・サファール(旅人の玉座)から眺めた夕焼けの壮大さと神々しさ。町も谷も空も、すべてが赤々と燃える炎につつまれていた。顔も手も衣類も真っ赤に染めずにはおかない太陽と空気の途方もない強引さ。その強引さに身も心も奪われてしまう人間の愚かさ。どんな造形美術もかなうまい。
 
 
 インドから帰国後の12月、何かのことでインド大使館からお呼びの声がかかった。在留インド人と邦人との交流をはかるという名目の立食パーティだった。ラビ・シャンカールのシタール演奏もあるというので行ってみた。ハッと目の覚めるようなインド美女に会えることを期待して。
「お兄ちゃん、きてたの」。真っ先に会ったのはKSさんほかインドの旅の友だった。「いまお兄ちゃんの噂してたの」。「アグラのレストラン、すごかったよねえ」。「なにが?」(私)。「え〜、もう忘れたの?」。「‥‥‥」。「ほれ、天井にヤモリがいっぱいへばりついてたでしょ」。 《あ、その話はするな》 
「上を見てヤモリのいないテーブル選んだのに、ヤモリのやつ、すこしづつ移動してきたのよね」。パーティ会場の、私たちの近くにいる人たちがいっせいに天井を見上げた。
 
 「いつの間にか真上にきて、ちょうどスープ食べてたとき、いきなり落ちてきたじゃない、お兄ちゃんのお皿に、ポチャンと」。周りの人たちが皆われわれをにらんでいた。「それ見てお兄ちゃん、血相変えてたよ」。「Sさんたら、ギャーって大声あげてお兄ちゃんにしがみついたじゃない」。「そしたらお兄ちゃんとSさん、イスごとひっくり返って、床におしりぶつけたよね」。
 
 それからの一年は瞬く間に過ぎた。その間、モロッコへ旅立つ私をKSさんは羽田まで見送りにきてくれたこともあった。まさかと思っていた出迎えにもきてくれた、妹のような顔をして。羽田で開口一番、「いもうとが迎えにきたよ」と言ったあの笑顔。
その年が明けた2月上旬、みなでシルクロード展に行くことになっていた。だが急用ができて行けなくなった。前日の夜、KSさんから電話があった。「お兄ちゃん、これないんだってね」。「そうなんだ」。「おもしろくないよ」。「わるいね」。「夕方からでも出てこれない」。「「だめなんだ」。「やだ、お兄ちゃん、デートなんでしょ」。
デートではなかった。母が所用で上京し、銀座の「治作」で都内の知り合いと共に会食しなければならなかった。
 
 それから一ヶ月ほど後、KSさんの卒業式が間近にせまったある日、電話があった。成蹊大学・インドの旅の友が集まろうということになったらしい。内輪の集まりだから私は断った。「だめよ、お兄ちゃんがこなけりゃ、集まるのよそうってみんな言ってるよ。必ずきてね」。よそうと言ってるのはKSさんだけじゃないか。「しかしなあ」(私)。「しかしもむかしもないよ、あるのはいまとイエスだけです」。
その晩餐会は渋谷でおこなわれた。原宿寄りの高級レストランだった。橙色のあたたかい照明。とりとめのないおしゃべり。ここちよい音楽と酒。自然にこぼれるほほえみ。時間がたゆたうように流れている。そんなとき、だれかが素っ頓狂な声をあげた。「あれッ、マドンナが泣いてるぞ」。KSさんのつぶらな瞳から大粒の涙があふれていた。目もとに浮かんだ透き通った真珠の粒は、ゆっくりところがるように頬をつたわった。
 
 KSさんが感傷的になったのは、郷里の松本市へ帰れば東京に出る機会が少なくなるからである。東京で体験したことの一切合切をボストンバッグにつめて帰郷するのだ。センチメンタルな気分になるのも無理はない。何人かがKSさんのまわりに集まってきた。あたりがすこしざわついてきた。だれかがやさしい声で「だいじょうぶ」と尋ねた。
鼻をぐすんとさせてKSさんがいった。「みんな、はなればなれになったら、お兄ちゃん、夢より遠くに行っちゃうもん」。「お兄ちゃん、書いてね、アフガニスタンのこと、いつかかならず」。よおし行くぞ、アフガニスタンへ。きっぱりと言い切ったKSさんとは別人だった。「約束してね、書くって」。
 
 それから二年たった。風の便りで松本にいるKSさんがお見合いして結婚したときいた。だれからも愛される女性だった。
アフガニスタンのことはまだ書いていない。書きたいのはKSさんのことである。
 
        亡き妹KSさんに捧ぐ

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