2006-04-14 Friday
川太郎
 
 あれはいつのことだったろうか、奈良市三条のきれいどころに出稽古していた花柳流の若師匠と管鮑の交わりをしていたころ、彼の弟子すじのひとりに粋で気っぷのよい芸妓がいた。
年の頃なら三十二、三、要するに当時の私と同じような年格好で、キリッとしているのに自然体、色気があるのに色気を隠す術に長け、相手の目をキチンと見て話し、絶妙の間で受け応えし、出すぎることのまったくない芸妓だった。
 
 彼女は「菊水楼」に賓客のあったとき出向することが多く、早い話、中央政界や財界の人々が菊水楼で一席もうけるときに声のかかる類の芸妓である。
歴代の総理大臣が就任翌年の正月、伊勢神宮参拝し、奈良・東大寺を拝観したのち会食するのが菊水楼であり、そういうときに呼ばれるのが三条の名妓なのであった。
 
 花柳の師匠は弱年であるにもかかわらず大師匠の父親から出稽古を託された。芸妓の芸名は川太郎、三条芸者のなかではとびきり踊りがうまかった。大師匠の秘蔵っ子といってよかった。
花柳の師匠父子との交流は、母が出稽古をしてもらい、正月には踊り初めが大阪天満の大師匠の自宅でおこなわれ、年に数回はサンケイホールや国立文楽劇場で大師匠一門の会が催され、それを見学したことにはじまる。
稽古のあいまに知床、玉造温泉、湯布院、飛騨高山、香港などを旅し、春先と晩秋、菊水楼で晩餐を共にするという、いわば家族ぐるみのお付き合いであった。
 
 菊水楼の贅を尽くした味わい深い懐石料理もよかったけれど、何よりもよかったのは川太郎さんとの出会い。あのとき初めて芸者の魅力について知り得たのである。
なぜよかったのか。それは、私たちが政界とか財界とかに無縁で、家族的な交流を深めた者同士であり、川太郎さんやほかの芸妓と花柳父子は気のおけない師弟、つまりは内輪の集まりであったからだ。
 
 若師匠は、たいして年のちがわない芸者衆に対してまったく遠慮がなかった。彼女たちは芸者であることを逸脱するほどなれなれしくなく、深く馴染んだ客と芸者のような独特の風合いを感じさせた。愛弟子とはそうしたものだろう。
なかには二十五、六の新米芸者もひとりいて、容姿は図抜けて美しかった。しかし中身が伴っておらず、私たちの会話に耳を傾け興味津々という顔をしていた。
ただ、新米であっても、常にはない状況に生じる花火を目ざとく見つけ、そこから何かを得ようとする姿勢はあった。実践から学ぶとはそうしたものである。彼女はその後、名妓の仲間入りを果たしたかもしれない。
 
 話が佳境に入ったころ、学生時代から疑問に思っていることがあったので、ここで訊くのもどうかとは思ったが、思いきって尋ねてみた。「川太郎って男の名前ですよね、いまの芸者さんはどうして男の名が多いの?」「いまの」といったのは、昔は幾松、雛菊、手鞠など、女の芸名が在ったからだ。
川太郎さんは「いややわぁ、てんごう言わんといてください」とあでやかな面持ちで私の目を見、目がふざけていないのを確かめ、実にいい間でこういった。
「女の名前やったら、旦那さんが寝言いうたとき、となりでやすんではる奥さん、なにごとかと思いはります。男はんの名やったら気にかけずにすむかもしれません。川太郎ってどなたと聞かれてもどうにかなります。」
 
 バカなことを訊いたものと即座に悔やんだが後の祭。いまは女性上位、女性を囲うこともおおっぴらにできぬ時代だ、何かの手違いで手鞠などと言おうものならたいへん、男児が鞠つきするのもヘンだし、手鞠唄を唄ってごまかしても勘弁してくれない。三日三晩詰問されて、精も根も尽き果てます。それにしても、辰巳芸者が男名を名乗った理由とはひと味ちがい説得力があった。
 
 あのとき、川太郎さんがいった「いややわぁ」の響きはいまも耳に残っている。あれほど美しくつややかに、いややわぁというのは至難のワザ。ふだん色気を隠しているから効くのである。
も一ついうと、「川太郎ってどなた」といったとき一瞬走ったあざとい眼、振り返ったときのうなじの白さ、元宝塚宙組・姿月あさと似の面立ち、忘れようとして忘れられるものではありません。

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