2006-01-30 Monday
春の雪
 
 三月にしてはめずらしい大雪だった。桃の節句に10センチの積雪は東京管区気象台の二番目の記録という。もう三十五〜六年ほど昔のことである。
 
 ほのかに淡く、いつともなしに溶けてゆく春の雪から思い浮かぶのは、ほんとうの赤はこの世にないといった人のことである。早春のかぐわしい匂いをただよわせながらその人はいった。「げんのしょうこみたいね」。
すがすがしい空気のなかで凛と咲く五弁の花は、白あるいは紫がかった薄紅色で、葉は柄があって対生し、幅3センチから7センチ、深く五裂する。茎葉を乾燥させ煎用すると下痢止めによく効くので「現の証拠」の名がある。
 
 三十年以上前のことなのに、あざやかによみがえるのは、その人の明るい声の響きと、あの香りである。それらは組み紐のように撚られ、心の奥底に封じ込められてしまった或る感情にぴたりと寄り添って生きつづけている。
その人をはじめて見たのは、昭和43年4月におこなわれた新入生歓迎旅行だった。先輩に甲府出身Hさんがいて、塩山市の恵林寺と甲府が目的地に選ばれた。甲府市は盆地ゆえ、郊外の丘から町を一望すると、どことなく京都に似ているような感じがした。
 
 その丘で、ブルーのスゥエードのジャケットと、膝小僧が見えるスカートを軽く身につけ、急勾配の坂を杣人の足どりで登り、Hさんが説明するのに対して、的確に質問を浴びせていたのがその人だった。
美しかった。ただ美しいだけではない、女性としての犯しがたい品格がそなわっていた。そして、からだ全体に凛々しさがみなぎり、目のかがやきはその人の生き方のすみずみにまではりめぐらされた叡智を映し出していた。すごい先輩がいる、私はそう思った。その夜、宿泊した旅館の大広間で会員の自己紹介があった。その人は遠くに座って隣の人と何か話をしていた。その人の順番が近づいてくるにしたがって鼓動が高まり、その音をだれかに聞かれはしまいかと咳払いをしたが、かえって早鐘を打った。
 
 「文学部○○科一年の☆☆です」。意外だった、新入生と知って自分が子供にみえた。
それから後はおぼえていない。たぶんその人は、古美研に入った動機や抱負を手短かに語ったのではないだろうか。その人とはそれからも学生会館で何度か顔を合わせたが、近寄ることはいっさいせず、距離をおいて存在を確認するだけで得心した。
二年半そういう状態ですごせたのは、その人も私も多忙であったからだ。私は、夏休みや春休みなどの長期休暇は旅行の明け暮れだったし、関東古美術史跡連盟の幹事であったせいか、早稲田に通う日々より他校との交流の日々のほうが多かった。
 
 その人も責任ある立場に就き多忙な日々に追われていた。肩にふれるかふれないかの長さの髪が長くなったとき、その人は恋をしていたにちがいない。その髪が一年ほどたって短く切られたとき、底なしのスランプに陥っていたという。油絵に打ち込むようになったのもそんなときだった。自らの心に封じ込められない暗い情念を、キャンバスのなかに封じ込めたのである。
そのころ描いた風景や静物は壮絶なまでに明るい。絵のなかに一点の暗さでもあれば、その人の心の画布はズタズタに引き裂かれていただろう。強靱な精神力である。
 
 そのころの私は、悩みを真に悩まず、多忙を理由に人との交流を疎かにし、自分をいたわってくれる人に反抗し、そのくせ自分をいたわることに汲々としていたように思う。
同じころ、試練を乗りこえたその人は美しい女から凄絶な女に変身する。新入生歓迎旅行の鮮烈なデビューをはるかに上回る、峻烈ないい女になって再登場したのだった。
 
 『ただ夢中でかけぬけてきて、いろんなものをいっぱい捨ててきたけど、一生つきあっていけるものを得たと思うよ。それって人を裏切らないよネ。好きなことはいつまでたっても好きだもん。裏切るのはあたし自身の怠慢、じゃないかなあ。』
 
 怠慢が人を裏切る。その人から発せられることばはなぜか心に響いた。
 
 『仏像をみていてどんなこと思う? なにを感じる?』
 
 『‥‥‥‥』
 
 『古代の人々、特に仏師は、あたしたちがもう感じえなくなった意識の底を通じて仏や神々に至る道をたどったんじゃないかなぁ。それでネ、神の愛と仏の慈悲にすがることで人を救おうとする観音菩薩の姿をこの世に刻もうとしたんだよ。
あたしたちの想像力で入っていけるのは、たぶん、古代の人たちがなにを感じ、なにを願ったか、史料にはまったく記されていない闇のなかへ、だと思うの。』
 
 『‥‥‥』
 
 『仏像がこの世のものとは思えない美しい響きを奏でて何事か語りかけているのがきこえませんか。霊的には盲目同然の現代人に対して、はげしく語りかけようとしているのよ。文明の利器という恩恵に浴しすぎた現代人にね、渾身の力をこめて訴えているのがわかりますか、仏や神々の響きをきくことのできる魂を蘇らせてくださいって。』
 
 『‥‥‥‥』
 
 『祈ることを忘れ、祀ることを忘れた現代人にね、まず祖霊に対して非礼を詫びて、自らの心のうちに霊的空間をつくってください、そして、わたしたちの奏でる響きをきいてください‥‥。』
 
 「霊的空間」というのは、「史料に記されていない闇のなか」ということなのだろうか。私たちはともすれば史料に記された事実だけを偏重して、ほんとうのところが見えなくなることがある。真実は一つしかないということから物事はかならずしも出発しない。
人の心が幾層ものヒダの折り重なって変化していくように、ヒダのひとつひとつに真実が隠されている。ヒダの数だけ真実があるのかもしれない。心のヒダが闇のなかでひくひく蠢いている。霊魂と直に会話できるのは心のヒダなのかもしれない。
 
 人間の起源を悠久の時の流れにしたがって遡っていくことができるなら、私たちは不可視的領域にあったとき、霊魂であったのではないだろうか。霊魂は、目に見えるものの領域に入って、やっと私たちになったのではあるまいか。
自然界には測り知ることのできない法則があり、その一部しか人間には開示してくれないように思う。そこに至る扉の前で私たちはただ立ちつくすばかりであるが、霊魂のみが扉の内と外を往ったり来たりできるのではないだろうか。
 
 人は輝く星、高い山、深い森、透きとおる渓流、清冽な泉、風にたなびく草原を見てなぜよろこぶのか。いっときとしてじっとせず、たえず変化し流れてゆくいのちのなかに、霊的空間が厳然として存在し、その空間でのみ人は神と、祖霊と一体になることができるのかもしれない。
しかし、もはや祈ることも祀ることもなく、素直な心をさえどこかに置き忘れた現代人に霊的空間など生じうるはずもないのであった。殺伐とした都会の、心のやすまる時間とてない生活の明け暮れに、神々や祖霊の訪れる場所などないのである。
 
 春にふる淡雪。空一面にひろがった雪雲からとめどなく舞いおちる小さな花が三千世界を白一色におおってゆく。都会の吐き出す汚物をやさしくつつんでゆく。
春の雪は三千世界をさまよう無数の祖霊ではないだろうか。冬の雪にくらべると、なぜか懐かしい人々に会っているような親しみとあたたかさを感じるのだ。
 
 ある日、かかえきれないほどのマーガレットを胸に抱いてその人はいった。
 
 『ねえ、これ見て。』
マーガレットなんて、いままで見向きもしなかったのに、こんなにも美しい花だったのか、その人の胸に抱かれると。
そばにいるだけで、沈んだ気持ちもにわかに活気づくという意味でげんのしょうこを引用したことがわかったのは、だいぶ後のことだった。私をげんのしょうこにたとえたのだ。
『ねえ、こんな小さな蕾でもネ、毎日少しずつふくらんで、奥のほうからうっすらレモン色がさしてくるでしょう。きっと蕾の奥にいのちがあるんだよ。』
 
 その小さくて白い花は、美しいにはちがいないが、ただごとではないような気がした。かたくて小さな蕾の奥にあたらしいいのちがめざめてゆく。いいのだろうか、こんな姿をみせてしまって。これからどうなるのだろう、白い花びらは。暮れなずむ春の日に吸い込まれるように散ってゆくのか、濃紺の空が地面に低く降りてきて漆黒色に変わる夜を秘かにまっているのか、ふたたびうまれかわるために。
 
 


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