2005-12-30 Friday
ちあきなおみ
 
 34年ほど前になるだろうか、カーステレオをエイトトラックというバカでかいテープで聴いていたころ、繰り返し何度も聴いたのは「ちあきなおみ」だった。昭和47年に「喝采」がレコード大賞を受賞する前の話である。
ちあきなおみのデビュー曲は「雨に濡れた慕情」。「雨の降る夜は なぜか逢いたくて」ではじまる淡々として切ないメロディは、助手席に座っていたMさんがメゾフォルテとつぶやいた名曲である。私の名前がFゆえにM&Fかなとも思ったが、そんなわけないヨといわれそうな気がして黙っていた。後に「スーチン展」をみにいった折、スーチンの作品目録の裏側にM&Fと記してあった。
 
 曲名は忘れたが、そのテープのなかになんともいいようのない淋しい歌があった。公衆電話から逢いたい人に電話するのだが、相手が電話口に出た瞬間に電話を切ってしまい、ツーという音だけが耳に残る箇所が印象的だった。そういう経験がMさんにもあったのだろうか、それとも、近未来の私たちを暗示していたのだろうか、その曲が流れると妙にしんみりした。
 
 昭和46年、Mさんと頻繁にドライブした。御前崎へはよく行ったが、台風の接近している御前崎の海はおおしけで、車も人影もみえない海辺で何をしていたのか、押し寄せる白濁の波に向って、声なき声を発していたのかもしれない。
海水が水しぶきとなって顔一面を濡らし、エンジンをかけっぱなしの車にもどったとき、流れていたのは「ちあきなおみ」の歌だった。それだけはなぜか憶えている。
 
 昭和45年11月、豊饒の海「春の雪」をMさんに貸し出し中に三島由紀夫が死んだ。三島はそのとき45歳だった。
三島の自決の一ヶ月ほど前、太宰治の「女生徒」がMさんそっくりだと庭園班同期のHKに言ったらば、HKがきっちりそれをMさんに言い、ある日、学館でMさんと遭遇したとき、「あたし、女生徒にそっくりなんですってネ」といたずらっぽい目でいわれてしまった。
 
 ちあきなおみはその後も歌に舞台に活躍した。どのステージであったか、「朝日のあたる家」を、ちあきなおみ風に切々と歌い上げたことがある。うまかった。ただうまいだけではなかった。朝日のあたる家にいた女の、憂愁に満ちた半生が眼前に浮かび上がってきた。ちあきなおみの魂を感じて心を揺さぶられた。
「紅い花」であったか、「昔の自分がなつかしくなり酒をあおる」、「疲れた自分が愛しくなって酒をあおる」という歌詞がある。現在に較べると、過去は豊かさに満ちあふれている。そこには無数の哀歓、怒りにも似た嗤い、耐えがたい苦痛、極度の緊張がひしめきあっている。
 
 平成4年、ちあきなおみは「黄昏のビギン」を歌った。「雨に濡れてた たそがれの街」ではじまる、追憶に耽るには十分な潤いがあり、ちあきなおみの半生が浮かんでくるような名曲である。それを実にしっとりと歌っている。
この曲をはじめて聴いたとき、黄色い落ち葉を踏みしめながら歩くMさんのすがたが茫洋と浮かんできた。呼び止めようとしてもMさんはひたすら歩いた。凛々しさにみちたそのすがたをしばらく目で追ったが、いつの間にかMさんは木立のなかに消えていった。
 
 平成4年、「黄昏のビギン」発表後まもなく、夫・郷えいじが亡くなり、ちあきなおみは一切の芸能生活からおさらばした。45歳だった。

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