2005-12-15 Thursday
祇園の小西さん
 
 1989年以降数年の間、ベルリンの壁やソ連邦の崩壊、湾岸戦争などの激震で国外は大きく揺れた。国内はバブル崩壊によって高度成長がストップした。バブル崩壊はまだ序の口で、その後に到来する経済の低成長、戦後未曾有の超低金利をだれが予想しえたろう。
都市部がバブル崩壊に騒然となっていたころ、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいた町があった。京都祇園である。そこには父祖代々の老舗を継承する特殊な集団が存在し、彼らは旦那衆と呼ばれ、黯然たる勢力を保っていた。
 
 ところが近年、その旦那衆が激減し、それにつれて祇園の町も変化した。舞妓さんの衣装を着けて、髪型や化粧もそれ風にこしらえた上で記念写真を撮るといった商売があらわれ、若い女性に好評という。そしてまた、敷居の高かった祇園花見小路に、財布の中身を気にせず気楽に入れる小料理屋、居酒屋もオープンした。
過日、そういう居酒屋の一軒で庭園班OB五人が酒を酌み交わしたのであるが、私は風邪気味で酒、料理ともに控えめにしたとはいえ、ほかの四人はたらふく飲食したというにもかかわらず、一人四千円ほどで上がった。いつの間にか祇園での飲食相場が大衆化したのである。
 
 祇園花見小路の「置屋」(芸妓、舞妓が住み、主の女性が仕切る)を生家とする小西さんは昭和10年代後半、祇園で売れっ子の舞妓さんであった。
昭和43年(すでに置屋は廃業していた)の冬、縁あってその置屋に二ヶ月ほど下宿したことがあり、小西さんの年の離れた妹さん(当時、母校の同志社大学に勤務していた)と懇意にさせていただいたことがある。
その年の夏だったか、早稲田大学古美術研究会で知り合ったHH(彫刻班に在籍)に妹さんを紹介してやったが、Hの親友で読売新聞記者となったN君がこのとき同行しており、このN君が彼女に岡惚れしてしまう。小西さんの妹は私たちより4歳年上、おとなの女だったから、Nにはいっそう惹かれるものがあったのだろう。
 
 翌昭和44年春、Hから祇園の件で再三の依頼があり、仕方なく私は小西さんの妹に連絡した。また彼らが世話になりたいと厚かましいことを云ってますがどうなさいますかと尋ねたら、何もおかまいできませんけど、それでもよかったらどうぞおいでやすという返事だった。彼女にぞっこんのN君が狂喜したのは想像に難くない。祇園で再会を果たした後、酒席でつれづれにおこなった余興がN君の想いをさらに焦がすこととなった。
 
 彼女が「魚の名を当てっこしはらへん」と提案し、居あわせた者に否やのあろうはずもなく、やろう、やろうということになり、魚へんに春はサワラ、雪はタラ、青はサバ、安はアンコウ、有はマグロなどと銘々が出題しあっているうちに座は盛り上がり、N君が、京都にいるのだから魚へんに京のつくのがあるはず、彼女に「何でしょう」と訊いた。
 
 「‥‥いややわぁ、わからへん、Nさん、教えておくれやす」
 
 「そんなに早く白旗上げないで、せめてあと10秒考えてください」
 
 「十、九、八、七、‥二、一、ゼロ。やっぱりわかりません、早う教えて」
 
 「ク、ジ、ラ」
 
 「あっ、そうか‥‥」
 
 「そしたらNさん、魚へんに羊はどんな魚やろ」
 
 「‥‥‥‥。‥‥‥」
 
 「まだどすか。制限時間はあと10秒です」
 
 「まいった、降参、わかりません」
 
 「新鮮の鮮どす」
 
 「あれ、そんなのずるいですよ」
 
 「そやかて、クジラも魚と違います」
 
 「‥あっ、これは一本取られた」
 
 そんなことがあって、N君はいっそう彼女の虜になったという。
 
       
 
 妹さんの話はひとまず幕にして、小西さんにはひとかたならぬお世話になった。世話になったのは私だけではない、私の母も随分お世話になった。母から聞いた話であるが、小西さんは芝居をみにいっても、みたいところだけみてさっさと席を立った。
みていても、役者が手を抜いたり、気持が入っていなければ、その場で「アカン」とつぶやいて席を立ったという。南座桟敷席券を何度もらったことか。
祇園界隈にかぎらず京都で食事をしたときは、料理の味がほんのすこしでもわるいと、「へ〜ぇ、ごちそうさま」といって席を離れた。板前泣かせといえばそれまでであるが、昔の板前はそういう客と出会うことで腕を磨いた。いい料理を出しさえすれば強烈に贔屓し、金離れのよい客を多く紹介してもらえる。独立して小料理屋を出すとき支援してくれるからだ。それが古き良き時代の約束事なのである。
 
 書けないことが山ほどあって、その一つ一つがいまも忘れえぬ記憶となっている。
小西さんは桂に住んでおられたが、退屈なのでしょっちゅう祇園に遊びに来たという。
小西さんは祇園でも今はめずらしくなった旦那衆のひとりだった。女ではあるが旦那であった。それだけのハラの太さを持っていた。一言でいえばすごい人だった。
母が生前ポツンと言ったことがある、小西さんはわたしの旦那だったのかもしれないと。気っぷのよさ、太っ腹では人後に落ちなかった母がそういうのだから間違いない。
 
 平成8年夏、小西さんは祇園祭が終わるのを待ちかねたかのように、祇園花見小路の実家で妹さんに看取られて亡くなられた。

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