2005-12-11 Sunday
妹尾さん
 
 妹尾さんは学生時代の六年間京都に住んでいた。京都大学医学部在籍中は勉学にいそしむ傍ら、京都の寺巡りに余念がなかった。母校の付属病院勤務中に見合い結婚した奥方は植民地時代の朝鮮で生まれ、戦後帰日したから、京都の寺社仏閣、庭園をみるのもはじめてで、妹尾さんは非番の日嬉々として奥方を連れて歩いた。
 
 奥方の実家が医者一族ということもあり、医者の仕事の奥向きを心得ていたせいか、京都が空襲、戦災とは無縁で、大阪や神戸などの関西の都市に較べて人心が安定していたこともあってか、若いご夫婦はすぐうちとけた。
外地・朝鮮で奥方が慣れ親しんだのはクラシック音楽の定期コンサート。その当時、もっとも来演の多かったのはペテルスブルクやモスクワからのオーケストラで、ベートーヴェンやブラームスの交響曲も演奏してくれたが、やはりチャイコフスキーが圧倒的に多かった。そのせいかどうか、奥方はチャイコフスキー贔屓である。なかでも特にヴァイオリン協奏曲を愛した。
 
 糺の森や高雄に遊ぶときはなぜかしらクラシック音楽の話題に花が咲き、途中で何度も野鳥の声に耳を欹(そばだ)てた。鳥の啼き声に管楽器の音を聴き、樹々を渉る風、小川のせせらぎに弦楽器の音を聴くのである。そして庭園巡りは、ふたりに心の安寧をもたらしてくれる至高の音楽といってもよかった。
 
 妹尾さんは外科医であった。絶え間ない手術と研究に没頭した心身の疲れをいやすために庭園をみに行ったが、なによりも、乾いた魂に潤いをあたえるために庭園を訪れたという。昭和20年代のことである、訪れる人のいない庭園の廊下や濡れ縁に座し、ある時は荒ぶる心を静まらせ、またある時は沈んでゆく心に喝を入れた、修行僧さながらに。
数年の付属病院勤務の後、妹尾さんが赴任したのは高知市の総合病院だった。
高知暮らしは、倉敷で開業するまでの十数年に及び、高知で一男一女をもうけた。
 
 年長の妹尾さんと知遇を得たのは昭和50年代の半ばであったか、私は三十になり立てほやほやのころで、でも、親子ほども年の離れた気ままな私に妹尾さんは根気よく付き合ってくださった。
東京、大阪、京都の有名料亭に何度通ったことであろう、妹尾さんも私も日本料理に目がなかった。倉敷美観地区の老舗料亭旅館で晩餐をともにさせていただいたも一度や二度ではない。
 
 過日、庭園班OBOG会をおこなった嵐山の「嵐亭」も、妹尾さんご一家と食事や宿泊をともにした思い出の地である。渡月橋から上流の保津川景観を四季折々たのしみ、古都のくれなずむ夕暮れを眺めているだけでよかった。嵐亭の料理は美味だが、料理も器も四季を模するのであってみれば、最高のご馳走は風景なのである。
 
 京都に住み、京都の寺社と庭園拝観を長年つづけてこられ、倉敷に居を構えた後も毎年京都を訪問されていた妹尾さんがいわれたことで、いまなお忘れぬことがある。「いやあ、ここはまだ来たことがありません。はじめてです。」
そうおっしゃったのが円通寺である。そして、円通寺に出会ったことを心からよろこんでおられた。昭和60年ころの話である。
 
 持ち前の仁と徳ゆえに長年にわたり地域の人々から慕われ、高齢になっても欧米の新しい医学専門書や定期研究誌購読に余念のなかった妹尾さんは先年、不帰の人となられた。

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