2019年2月16日    パパガヨ 苦楽園
 
 阪急電車・甲陽園線「苦楽園駅」(兵庫県西宮市)から徒歩1分の「パパガヨ」は1981年、伴侶がポートピア神戸博ではたらいていたとき同僚数名と食事したのがきっかけで、毎年数回行くのが定例となった小さなレストランである。1972年から約4年間、苦楽園駅から徒歩10分ほどの場所に住んでいたころパパガヨは存在せず、苦楽園から宝塚市に引っ越した後にオープンしたと思うが、時期は知らない。
 
 食事したのは手頃な料金のランチで、パパガヨのランチは軽い前菜〜スープ(またはシチュー)〜メイン料理とつづくセットメニュー。内容は月ごとに変わり、前菜の一番人気は生ハムとメロン。メロンは通常より大きく、どこから仕入れたのか味もかなりのもので、生ハムは甘塩のぐあいがよく、舌に塩味まったく残らず、切って並べるだけなのに飽きることはなかった。
 
スープというよりシチューの皿にまわりにパンが円状に付いていたシチューは、シチューもおいしく、パンもふんわりしていい味をしていた。その一皿が出る場合、バゲットほかの自家製パンには手を出さず、皿のふちに付いていたパンを食べた。
 
 食べに行くときは一個団体、8名とか10名、多いときは12〜15名。主要なメンバーはおぼえているけれど、たまに参加する人々の顔を浮かんでこない。なぜかというと、1980代半ば、道東からやって来てしばらく滞在していた母子の子をパパガヨに連れて行った日の情景がクローズアップされて、ほかのメンバーの影が薄くなるのである。
 
 その女の子は3歳だった。同年齢の子どもと較べると少し大きかった。初めてやって来たのは2歳6ヶ月で、すでにその年齢で幼児ことばは話さず、しっかりした口跡でしゃべっていた。
食欲旺盛で、一個団体で食べに行ってもお子様ランチではなく、おとなと同じようにアラカルトを食べていた。母親が「かまいませんか?」と尋ねたときにはだいじょうぶかなと思ったが、何を注文してもペロリと平らげた。
 
 大阪ロイヤルホテル(現在はリーガロイヤル)の地下にある「なだ万」へ月例夕食会を当時おこなっており、その女の子も一緒に連れて行った。仲居頭が「お子様用のお食事になさいますか?」と聞くので、「いや、同じものを」と言うと、「ホントに?」というような顔をした。
3歳の子が座敷にすわっているのを見たのも初めてと仲居頭の顔に書いてあった。それで夕食の懐石料理はどうなったか、言うまでもないでしょう。驚いたのは、ご飯と汁物のさいサービスで出た鯛のあら炊きを骨だけ残してきれいに食べたことである。参加者10数名もいて、そこまで見事に片づけたのはその子の母親、伴侶など3人しかいない。
 
 パパガヨのランチは一品々々の量はたっぷり。女の子はシチューを食べ、途中までスプーンを使っていたのだが、残りがわずかになったとき、小さなモミジみたい両手で皿を持ち上げ、ぐいと飲み干し、食べきってしまったのだ。そのようすを見た私は両手で皿を支え、同じように行動した。そのときの女の子の顔、小さな手。可愛いといったらなかった。
 
 1995年1月の「阪神淡路大震災」でパパガヨの入っているビルは倒壊した。震災から6年経ち、苦楽園へ行き確かめた。ビルの跡地に別の建物が建ち、パパガヨの消息は不明。ネットなどで調べても成果はなかった。諸々の事由があって再建できなかったのだろう。
 
 カーリング女子の試合に「ロコ・ソラーレ」が登場すると裏方に回った本橋麻里を思い出し、元気で活躍する鈴木夕湖、吉田知那美などが真剣な表情や笑顔をみせたとき、あるいは、ストーンをうまくアイスに乗せたとき、彼女たちやスト−ンの行方を追わず、道東の常呂町や紋別の風景が眼前に浮かび、そのたびにあの女の子を思い出す。
 

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