2019年2月14日    金田中 香港
 
 香港のコーズウェイ・ベイ(銅羅湾)地区にヴィクトリア・パークという大きな公園があり、早朝、住民がグループ別になって太極拳をするのを何度かみたことがある。ヴィクトリアパークの横に建っていたのがプラザ・ホテル(後にパークレーン・ホテルと改名)。ホテルの最上階(27F)にあったのが日本料理「金田中」香港支店で、1980年代の初め、毎年5〜6回香港で数泊すると、一度はかならず夕食を食べに行った。
 
 香港へ行くときはおおむね10名、すくなくても8名だったから、年に何度か食べているとお得意とみなされるようになる。なに、旅の一夜を日本料理店で過ごすだけ、いつ途絶えるかもわからない行きずりの旅行者である、しかも年に数回のみ、在住者のように毎月でもなく、こっちから常連顔するのは避け、10年経っても一夜の夕食という姿勢を保ちつづけた。
 
 だから、そのうち取り上げる予定の九龍「シャングリラ・ホテル」の「なだ万・香港支店」とちがって、支配人とも親しくならず、一定の距離を置いていた。それがそのころの自分流だ。金田中の支配人の顔もおぼえていない。
 
 後に金田中はパークレーン・ホテルから「そごう香港支店」の近くのビルに移転する。そのころ(1980年代後半)になると毎年10回前後、私ひとり香港へ行くときは金田中で食事することはあったが、集団で金田中へ行くことはなかった。
香港の日本料理屋は金田中のほかに途中から上記の「なだ万」、「稲菊」、「銀座」など数軒あり、それぞれ得意とした一品はあったけれど、懐石料理とそのなかの汁物、サワラやマナガツオの味噌漬けの焼物については金田中に一日の長があった。
 
 しかし何よりも金田中での一品は懐石料理を平らげたあとの「天麩羅そば」だった。陶器ではなく塗り物の椀に入る手打ちそばは客が注文すれば打ち、したがって最初に注文せず、料理を食べ終わってからだと待たされる。エビ天が4匹そばの上に並び、車エビは新鮮で美味、衣も薄くカラッと揚がり、ダシもそば屋のものと異なり上質のかつお節をふんだんに使った逸品。満腹に近い状態でもスルリとお腹に入る。
 
 金田中の料理は焼物とダシ、そして天麩羅そばである。鳥取の従兄は特にそばが好物というわけではなく、しかし金田中の天麩羅そばだけは例外で、香港の夜の食べものといえば広東料理と天麩羅そばである(ランチに関してはいずれそのうち)。従兄と共に香港へ行ったのは1980年代初めの3年間だったが、それ以降の1980年代半ばから1990年代前半の香港行より楽しかったし、懐かしい。
 
 さわやかな熱血漢であった従兄は還暦前、満59歳で旅立った。金田中もとっくに店じまいし、私は1995年3月以来、香港へは行っていない。従兄が生きていれば、私たちが老いたことも、あのころのように食欲旺盛でないことも忘れ、35年以上前に帰って、「天麩羅そば」が目の前にあるかのごとく思い出話に興じながら夜は更けるだろう。従兄は美男子で、スタイルは良く、背が高く、足も長く、笑顔もよかった。
 
 食の話で従兄と意見が一致したのは、必ずしも「おいしい」レストランが有名になるのではなく、たいした味でなくても、有名人とかメディアとか、ミシュランとかが喧伝したレストランが有名になるということである。
 
 香港以外では雪の金閣寺、春から初夏にかけての詩仙堂に従兄と何回か行った。金閣寺へは朝のニュースをみて、雪がつもっていて、その日の予定がないかぎり、仕事のあく午後になるのを待ち受けるように京都へ向かった。一度は積雪後の京都が晴天になったと知るや否や、特に重要な約束がなければ直ちに車を走らせた。雪がとけてしまうと金閣寺の美しさも失われる。
 
 従兄とは年に数回ハイキングでも行動を共にすることはあったが、京都と香港の思い出に較べれば微々たるものである。雪の金閣寺を眺め、天麩羅そばを食べる従兄の満ち足りた顔が浮かんでくる。生きていれば従兄も満足気な私の顔を思い浮かべるにちがいない。

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