昭和55年(1980)ごろから平成5年(1993)ごろまでの13年間、1年のうち1ヶ月半くらい札幌と紋別で暮らした。紋別は母の別宅があり、札幌は昭和57年までホテルに滞在、同年秋、札幌市中央区南2条東6丁目の新築マンションを購入し、ホテル暮しにおさらばできた。
さまざまなタイプのマンションを買って暮らしたが、札幌のマンションに勝るものはない。広さ、間取り、ロケーション、静けさ、見晴らし、交通の便など、文句のつけようがなかった。
札幌の食べものは食材にもよるが新鮮で良質なものが多い。早起きして二条市場(徒歩5分)で物色しなくても、三越(徒歩8分)の地下食料品売り場には夜8時まで新鮮な魚介類、野菜がならんでいた。マンションのそばの豊平川に架かる一条大橋(徒歩3分)をわたるとそれなりのマーケットもある。
伴侶の滞在中、夜はマンションで食べることが多かったけれど、昼は札幌駅前デパートの天ぷら料理店で格安の天ぷら定食、駅地下の食堂街で日替わりランチ、そば屋「八雲」で食べたり、夕食は宮ノ森のレストランやセンチュリーロイヤル・ホテル19階の「北乃路」(きたのじ)で食べることもあった。
わたしたちが「北乃路」で注文するのは昼夜の別なく「男爵いものバター煮」がついた料理で、数種類の郷土懐石定食のひとつ。メークインに較べれば形くずれしやすい男爵いもが形くずれせず丸ごと器に入っている。
蟹の甲羅揚げも美味。ツブ(貝)の刺身もこりこりした食感があり、新鮮な魚介特有の甘みもあった。後年、道内の料理屋、積丹の名物食堂などで食べはしたが、北乃路のツブに勝るものはなかった。漬物にいたるまでこれはと思ったのは、記憶をたどっても大阪ロイヤルホテルの「なだ万」(花板が中村孝明の時代)しか思い出せない。
汁物のダシは利尻とか礼文、江差の上等の昆布を使っている。かつお節はおそらく「なだ万」と較べればやや劣ると思うが、まずまずの味。そういう比較をしなくても、男爵いものバター煮を食べれば、そのおいしさに沈黙するだろう。
北乃路はホテル19階の大通り公園側に面し、窓際のテーブルからテレビ塔、大通り公園が見渡せ、夜景はネオンの数と規模が少なすぎず多すぎず、大きすぎず小さすぎず、旅情をさそう。
内地の人たちを招待してバター煮を食してもらった。全員が「おいしい!」と絶賛。腕自慢の木村のおばば、伴侶の母が挑戦したけれど、何度やってもうまくいかず、圧力鍋を使ってもダメだった。
北海道産の男爵を使い、醤油も家庭用より上等を買い、なんとかかんとか作ってみた。いもの形はくずれ、味も月とすっぽん。みりんを使っても酒を入れても、バターを代えても、破れかぶれで砂糖の量を加減してもあの味におよばず。
平成元年(1989)6月下旬、出発日がばらばらだったわたしたちファミリーは、夕食のため「北乃路」に集まる。北海道の夏は日が長い。かなり明るい午後7時、弟の嫁がなかなか来ない。
先付けが運ばれたころ急ぎ足であらわれ、開口一番、「美空ひばりが亡くなりました」と言った。嫁が部屋を出ようとした矢先、ひばり逝去のテレビ報道があり、釘付けになっていた。
何を思ったのか妹が、初めて北海道を訪れた20代、定山渓を「さだやまけい」と読んでいたと述懐、初めて石狩川の蛇行を列車から見たときの驚き。早春、紋別の高台にある母の別宅で「ギシギシ」という音に目ざめ、耳を澄ましたが音の正体は不明。確かめようと外に出たら眼下の海に流氷が接岸していた。
車で札幌から紋別へ移動中、岩見沢の郊外を走っていると、広大な畑に真っ白の花がいっぱい咲いており、行けども行けども咲いていたじゃがいもの花。
旭川から名寄へ向かう国道の屋台で売っていた焼きトウモロコシのおいしかったこと。紋別の家の畑で育てた絶品カボチャ。話はつきない。
弟夫婦は歌が好きで、母が代表役員をつとめる組織のコーラスグループ「ドライ・フラワーズ」(65歳以上のご婦人で構成)で教えていた歌が「川の流れのように」だった。12名のドライフラワーズのメンバーには「北乃路」で会食したご婦人が半数ほどいた。
誰だったか、男爵いものバター煮を食べているさなか、「ひばりさん、わたしたちが知らない豪華なものや山海の珍味を食べたでしょうが、これは食べていないでしょう」と言った。
それから数年後のある日、味が変わっていた。コクもまろやかさもなく、味つけが淡泊になっていた。板前が替わったのか、醤油も別の銘柄を使いだしたのか。以来、北乃路から足が遠のいた。
母は1998年に、妹は2012年に他界した。嫁の実家(高松)へ行った弟夫婦の生死は不明。北乃路のあるセンチュリーロイヤル・ホテルは2024年5月末閉館し、取り壊し工事が始まるという。男爵いものバター煮も遠い記憶となってしまった。
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