2022年9月30日    花座 大阪市
 
 ホテル阪神は有名ホテルとちがって敷居は高くなく庶民的で2階に日本料理店「花座」がありました。初めて行ったのは平成18年(2006)ごろ、伴侶が、「七周年記念の特別メニューがよさそう、行かない?」と言う。大阪市内でこれはと思う日本料理が激減していた時期。
 
 当時、大阪市内のホテルの料理店で夜懐石を6000円で食べられるところはなかったと思います。通常のメニューに一品増えて、料金は5500円(税サ込)でした。たいして期待せず行ったのに、従業員は親しみの持てる物腰、店内の雰囲気もよく、こんな値段で食べてよいのだろうかという味。
 
 汁ものと八寸を食べた時点で店長・和田さんに「おいしいですね」と声をかけたら、「お口に合ってよかったです、。料理長の工藤はなだ万にいました」と言った。なだ万の支店名はわからない。当時のロイヤルホテル「なだ万」は料理人が代わって味も落ちており、がっかりして適当な料理店はないかと思っていた矢先。
 
 大阪府池田市に住んでいた伴侶の母を連れだすのに、車で1時間弱の花座はうってつけの場所。義母と伴侶は後部座席にすわってもらい四方山話をする。昔話に花が咲けばあっというまに1時間は過ぎてゆく。往復に費やされる時間の花束は生き生きして盛り上がった。
 
 あのころの花座は活気があった。何周年記念といってはホテル阪神の広い宴会場で昼食会や夕食会を開き、招待状を送付され集まる常連客も多かった。ホテル名だけならほかに名の通ったホテルもあるが、味なら当時の花座は最上位に位置した。しかも知っているのは少数。
毎月一度、義母と3人で花座通いを続けていたが、急に吸い物の出汁の味が変わり店長に尋ねると、「工藤が独立しまして」と言う。日本料理屋かと聞くと「うどんすき」の店らしいという返事だった。二の句がつげなかった。それからの工藤さんの消息は知らない。
 
 阪急阪神グループの総支配人は自分の家族の祝いに花座を利用した。伴侶の中学時代、卓球部に所属する同学年の男子で、和田さんが1Fのカフェレストランに異動後、後任店長・石村さんは総支配人直属の部下。怒っているすがたを見たことがないと石村氏が言う総支配人は12代目市川團十郎を思わせる温厚な風貌。
 
 料理用のスダチが余ったから「要りませんか」と石村氏が言い、食事が終わると持ってきた。ものすごい量のスダチだった。サンマ、タイ、サーモン、アジのほかダイコンの煮物、味噌汁にも野菜サラダにも毎晩スダチを使った。徳島特産のスダチは格別おいしく、その後買った徳島産スダチとは大違い。
 
 従業員に有田さんという和服をうまく着こなす可愛い女性がいた。身長は165センチくらいあり、背筋がスッと伸び、目がぱっちりして、常に自然体で接客し好感が持てた。
金沢の新聞社勤務の友人が来阪したおり伴侶もまじえて会食を共にし、友人は有田さんの名を一発でおぼえた。小生が「榮倉奈々に似ていないか」と言うと頷く。彼は女性に、特に若くて可愛い女性に弱いのだ。
 
 その後も有田さんは花座にいて、テーブルを見渡せる場所に立ち客全体をさりげなく目配りしていた。客の誰かが手をあげたり合図したらすぐ駆けつけるためである。目配りを感じさせない雰囲気が秀逸で、伴侶は有田さんのたたずまいがすばらしいと讃えていた。
有田さんが宴会担当に異動したと聞いて伴侶と一緒に会いにいった。髪型は和服用のアップから洋装のストレートに変わっており、着物とは異なるチャーミングさが漂う。私たちの予期せぬ来訪を喜んでくれた。仕事中だからと時間を気にする私たちに、「だいじょうぶです、ヒマですから」と40分くらい会話したろうか。
 
 花座の主任・中野さんもいい方だった。伴侶が中学時代の同窓会とポートピア81の同窓会を花座でおこなった。中野さんが集合写真を撮影してくれたとき、上背のある彼が片手を上に伸ばしてカメラのシャッターを押す。動感のある上目づかいの女性たちが生き生きと写っていた。
休日に明日香や奈良を歩く中野さんは小生のホームページに興味を持ち、「散策&拝観」閲覧の感想を述べてくれた。「桂離宮が多いですね」とも言っていた。1Fカフェレストランから花座と同じフロアのフランス料理店長に異動した和田さんが共同レジ前で興じる私たちのそばにやってくる。
 
 閉店まで時間はあったが、花座から石村さんも出てきて歓談に加わる。義母はどうしていたのだろう、レジ前のイスに腰かけて会話に耳を傾けていたのだろうか。退屈していたかもしれない。
 
 和田さん、石村さん、中野さんはほぼ同時期に異動し、ちりぢりばらばらになった。彼らのいなくなった花座は魅力がなくなり、料理長も代わって味も落ちた。
何年か前、和田さんは六甲山ホテルから大阪万博近くのホテルに、石村さんは新阪急ホテルの宴会部に、中野さんは西宮のホテルにいると聞いた。小生の病や2020年2月からの異常な感染症で交流は途絶えた。
 
 和田さんは母親、本人、娘、孫の四代が辰年で、伴侶が「お孫さんの‥」と言いかけるとスマホを取り出し写真を見せてくれた。石村さんは、「そう見えないでしょが大型バイクに乗っています」と言っていた。
懐かしい人たちが次から次にすがたを消してゆき、記憶もほとんどが消える。人間が記憶を美化するのではない、記憶が人間を美化するのです。

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