2020年5月16日    コスモポリタン 渋谷
 
 昭和43年(1968)5月ごろ、同じ下宿にいた渡辺は慶応大学商学部に在学し、学校はちがっても同学年なのと、彼の実家(時計店)は小樽、小生の母方も北海道で共通点があり、道玄坂のボウリング場や渋谷駅前の映画館へ行くなど行動を共にした。下宿は朝夕まかない付きだったが、日曜の夕食は出ないので、行くところといえば渋谷駅近くのレストラン。
 
 下宿は渋谷区鶯谷町にあり、学生センター「ハビテ南平台」という名で、駅から青山通り(246号線)をまたぐ歩道橋をわたって南へ徒歩6分ほどの高台に建ち、裏手にノースウェスト航空の一戸建て庭付き社宅の一部を見おろせた。
渋谷駅西口前に世田谷方面行きのバスターミナル、その前(西)の東急プラザ2階のパスタ料理店で渡辺と何度もスパゲティを食べた。
 
 店の名は記憶がまちがっていなければ「壁の穴」。店名はどうでもよく、注文するのは決まって「コスモポリタン」。ベーコン、魚介類など具だくさんで、ゆで卵のみじん切りをふりかけたボリューム満点の一品。味もよかった。
窓際のテーブルに座り、昼は歩道橋をわたる人たち、バス待ちの人をながめ、夜は駅の反対側(青山学院方向)のビルの照明をみて四方山話にふける。
 
 身長184センチ、痩身の渡辺はスポーツをやっていないのに肩幅だけ広く、学生の分際で父親のつくったダイナース・クラブの家族会員カードを誇らしげに見せた。「400円のスパゲティに使うのか」と言ってやったら、「持ってるだけだな」と苦笑いした。52年前クレジットカード加盟店はすくなく、道玄坂のボウリング場でカードは使えなかった。
 
 1968年夏に上映された映画「卒業」はダスティン・ホフマンの出世作。学生役の彼が恋人キャサリン・ロスの母親に誘惑され、魔が差し寝てしまう。キャサリン・ロスが初々しい役を見事に演じた。母親役アン・バンクロフトは「奇跡の人」の家庭教師役で名を知られるようになる。
 
 中学生のころから洋画を見倒し、19歳でいっぱしの評論家きどりだった小生は、「卒業」を年上の女性とみにいけばどうだろうという興味にとらわれ、同好会の2年先輩、石彫班所属のSさんに学生会館前で声をかけた。
脚線美の先輩は身長160センチ、大理石のように白く透きとおった肌で足首がキュッとしまり、プロポ−ション抜群。「いいわよ、どこ行く?」。「渋谷なら座れます」。
 
 映画館は満席。階段状の通路、壁側のすみに立って「すみません、混んでて」。「平気。井上さん、だいじょうぶ?」。肝心のダスティン・ホフマンとアン・バンクロフトのシーン。アン・バンクロフトは恐そうでドキドキせず、立ちっぱなしで疲れた。
外のまぶしさにくらみそうになったが、先輩の後ろ姿を見てしゃきっとした。颯爽としたSさんは、7月の日ざしに照らされ、腰はくびれ、臀部はなまめかしく張っていた。
 
 Sさんは神奈川県大和市に住み、相模鉄道の大和駅から横浜だったか西横浜だったか経由で大学まで通い、往復にかなりの時間をかけておられたと記憶している。下半身は通学時間と関係があるかもしれない。
 
 映画の開始時間の都合でお昼を食べていない。「お腹すきましたね」。「渋谷だから知ってるでしょ、どこか」と言ってくれたので、これ幸いと入れかわって先導した。後ろからの感想は知られたくないし、先輩も知りたくないだろう。駅を隔て反対側のビル2階へ行き、コスモポリタンを食べた。
 
 Sさんとの語らいについて思い出せないが、食べながら考えたことはおぼえている。先輩は新入生の意図を感じ、そんなことはおくびにも出さず乗ってくれたのである。優雅でおとなだった。
 
 夏休みは旅に明け暮れ、ほとんど海にいたので身体は褐色。9月半ば帰京し、彫刻班の堀岡と野球大会開催の一件で都内を駆けまわり、実施したのは10月下旬のうそ寒い日曜、世田谷区民グランド。堀岡と30年ぶりに再会したとき、最初で最後の野球大会の話も出た。記憶力はよくないのにおぼえているものである。
彼はホームラン2本を打ち、そのうち1本は、単純なヒットを外野のトンネルでランニングホームランとなったのだが、それがさよならホームランになったことまでおぼえていた。
 
 そして11月、日ごとに紅葉の色は濃くなり、道ゆく女性の愁いが深まっていった。
上野の西洋美術館で出会った女性のことは記した(幕間「Short Stories」の「3日間の恋」)。わずかな回数しか逢っていなくても記憶に残る人がいる。スコットランドで1度だけ会った元海軍兵、エディンバラのピザハットで働いていた若い女性のように。
 
 西洋美術館の女性と1週間後に根津美術館で遭遇した。154、5センチくらいで小柄なのだが均整のとれた肢体、形のよい足。日焼けした肌。ショートカット。湿った仰月の唇。木々が映る大きめの瞳。控えめで明るい会話の調べ。かぐわしい香り。
 
 根津美術館のうす明かりで偶然出くわしたとき女性が意外な顔をしなかったのは、小生同様また会えると感じていたのか、刹那とわかっていても大切にしたかったのか。恋に思い過ごしはあっても、確信などあるわけはない、感性はさみしさと不安、期待にふちどられている。そういう感性が惹かれ合うのだ。
 
 相手の話を真摯に受けとめ、おぼえていることしか取り柄のない男には二度とないチャンスに思えた。女性は同い年で経堂にアパートを借り、多摩美大に通っていた。
歩きましょうかということになって千鳥ヶ淵まで歩いた。健脚で姿勢がよく、歩き方に躍動感があった。会話もはずんだが沈黙もあった。黙っていても気まずさは微塵も感じなかった。
 
 3度目は駒場祭に行きませんかとさそわれた。駒場祭はどうでもよかった、ただ会いたかった。11月24日、見学はうわの空で時を過ごし、夕食は渋谷のコスモポリタンを食べた。「すごい量」と言いつつ平らげる。彼女のふるさと宮城県の話、川と森が好きという話をしていると目が潤んで、夜の森の匂いがした。
 
 下宿にもどったのは午後11時半ごろ。玄関で上履きに履きかえていると管理人と経営者(女性)があらわれ、父の危篤を告げた。羽田伊丹間を運航する深夜のムーンライト便で帰省。危篤と言ったのは方便で、夕食を食べていたころすでに亡くなっていたのだ。
 
 自分を責めた。初七日を終え帰京するまでの間、下宿に電話し父の死を知り、再び電話をくれて「お父さま‥」と絶句した女性。悦楽の隣人は衝撃と苦悩だ。その後、女性とは逢っていない。翌年夏、旅行鞄に禁欲をすべりこませ、父の目となり耳となってヨーロッパを旅した。
時が流れ、記憶は薄れていき、名前も思い出せないほどだったけれど、住んでいた「経堂」の地名、魅惑的な容貌と雰囲気は忘れなかった。
 
 渋谷、下落合、宝怐Aそして宝怐B引っ越しを6回もくり返し、そのつど古いものを整理、廃棄した。ことし5月上旬、収納箱を整理していたら、縦7センチ横12センチの水色の住所録が出てきて女性の名と住所が記されてあった。
 
 「笑わないでね。古川千鶴子。千の鶴、昔の名前でしょ。ほら、笑った」。にらむような目、笑顔がよみがえる。
 
 渋谷のスパゲティ専門店は昭和43年11月24日以来行っていない。渋谷近辺は大きく様変わりし、多くのものがいつのまにか消滅した。記憶の断片。人間が記憶を美化するのではない、記憶が人間を美化するのだ。

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