2019年2月10日    インド鉄道 コンパートメント
 
 1973年夏、インドの旅の収穫は「いもうと」二人との出会いだった。エローラとアジャンタの窟院、カジュラホのカンダーリヤ・マハデーヴァ寺院の彫刻群、タージ・マハール、サールナートなども印象に残っているが、いもうとたちとの出会いがなければ単なる旅になっていただろう。
 
 ボンベイ(ムンバイ)を起点にデリーまで、インド鉄道を乗り継いで、途中駅や経由駅の主な観光名所、遺跡を巡る旅は、夜間に列車は走り、列車のトイレ&シャワー&寝台付コンパートメントで夜を過ごし、朝食を室内で食べたあと観光バスに乗って目的地まで行き、名所遺跡探訪後またバスに乗り、夕食後列車にもどってをくりかえす旅である。
 
 参加者の多くは夏休みを利用する大学生や教員、中途退職した会社員など。私と相部屋だったのは横浜市にある私立中高校の若い教員。
そういう職業の人にしてはめずらしく頭のやわらかい温厚な人で、やさしさのなかに凛とした風情がただようステキな、青木均さんという方だった。鉄道旅の序盤は青木さんと四方山話をして夜は更けていった、いもうとたちと親しくなるまでは。
 
 それで朝食はというとアメリカン・ブレックファストだった。タマゴはゆで卵、スクランブルエッグ、目玉焼きを選ぶことができる。パンだけは英国流の薄手のトーストで、コンパートメントのテーブル(折りたたみ式)で食すルームサービス。
トーストをどこで焼いているのかわからなかったが、目玉焼きなどは厨房ではなく、各車両の接続部近くにある1畳半ほどの納戸に七輪を置いて、どうみても料理人にはみえないインド人が腰をおろして、火加減をみるかのように作っていた。そのようすがどこかユーモラスで、朝の列車を感じさせた。
 
 渋谷のまかないつき学生センターを1年半前に引き払い、下落合の賃貸マンション(2LK)に引っ越し自炊していた。朝食はトーストだったし、卵料理はほとんど目玉焼きであったから列車の朝食に違和感はなく、目玉焼きとゆで卵を交互に注文した。子どものころ祖父がニワトリを飼い、産みたてのタマゴを食べていた。車内で食べたタマゴはそのころの味を想起させるおいしさだった。
 
 いもうとたちも七輪と、腰をおろして目玉焼きを焼いているインド人を見たという。朝、車両を移動すればどうしても目に入ってくるのだ。上のいもうと佐藤真理子さんは、「なんか危なっかしい。フライパンから落っことしても、拾って焼きつづけるかも」と不安気だった。「それはないよ、タマゴなんて安いものだし、落ちた目玉焼きを食べればすぐわかる」と言うと、「おにいちゃん、食べたことあるみたい」と笑った。
 
 一事が万事、下のいもうと木内佐知子さんも佐藤さんほどではないが十年来の友のごとく溶けこんだ。午後10時を過ぎたコンパートメントはいもうとたちとアフガニスタン旅行の話でにぎわい、青木さんはそのうち別の旅友だちのコンパートメントに行き、深夜まで帰ってこなくなった。
木内さんは私の話を聞くのに夢中になって、「青木さんがいない。どうしたの?」と言う塩梅。それでも話のつづきを聞きたがり、インド鉄道のコンパートメントはアラビアンナイトの世界になってしまった。
 
 「おそいから自分の部屋にもどったら」と言っても木内さんは帰ろとせず、まだ宵の口みたいな顔をする。旅も中盤にさしかかり、疲れも出はじめているのに、疲れた顔をみせれば「さっさと部屋に帰りなさい」と言われるのがイヤなのか、あくびをかみ殺して、まだまだという面持ち。佐藤さんが「12時過ぎたし、青木さんも寝なきゃいけないし、もどろう」と言ったので渋々帰っていった。
 
 インド鉄道の目玉焼き、木内さん、佐藤さん。いもうと二人とは帰国後もしばらく木内さんが卒業して実家の松本へ帰るまで交流はつづいた。木内さんはその後お見合い結婚し、再会できるとすれば25年後か30年後になるかもしれないと思っていた(「書き句け庫」2017年10月24日「続・魂の形見」)。
 
 木内さんが亡くなられたという連絡があったのは、2000年だったと記憶している。亡くなられて何年後であったのかわからない。お子さんがまだ小さいころ重篤な病にかかり亡くなられたという。
 
 インドでいもうとたちと知り合う前、居場所を失った私(そういうそぶりを見せたことはなかった)を心配して二日に一度電話してくれた木内さんは、インドから帰国して再度外国に逃げようとしている私に、「おにいちゃん、外国へ行くんでしょ。だめだよ、どこへ行くか、ちゃんと言ってからでないと」と見透かしたように言った。
 
 インド鉄道のコンパートメントに始まり、木内さんの帰郷で終わったはずの旅は終わっていない。木内さんが生きていればインドなんか忘れたかもしれない。先に旅立って特等席を用意してくれていると思っても癒やされるわけはなく、運行停止がいつまでつづくかわからないインド鉄道の列車に乗ったまま18年半が過ぎ去った。
 

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