2019年2月9日    イタリー亭 銀座一丁目
 
 1971年から約1年半、日比谷から近距離の「イタリー亭」に通いつめた。つめたといっても月に一度くらいだが、それでも毎月行ったのは、イタリー亭のパスタ(ラザニアやカネロニ)、オニオングラタン・スープ(飴色になるまで炒めた玉ネギのスープの上に薄いグラタンが乗っかっている)はコクがあって美味、しかも裏通りに面して間口が狭く目立たない店であるのもよかった。
 
 ほの暗い照明の店内、小さめの円テーブルに赤と白のチェックのテーブルクロス、キャンドルスタンドのロウソクのあたたかいともしび。イスは3脚か4脚。ふたりでもイスが3脚あるのは荷物を置くため。
角テーブルのイスに向かい合わせにすわるとか、ふたり並んですわるより、円テーブルに適度な距離ですわるほうが私たちの好みに合っていた。
 
 50年近い前の1971年、イタリア料理専門のレストランは都内にほとんどなく、情報誌もない時代、誰に教えてもらったわけでもなくイタリー亭に入ったのは幸運というべきか。イタリー亭での円テーブル、赤白チェックのテーブルクロス、テーブル中央のキャンドルスタンド、ほの暗い室内照明。
 
 私の顔や雰囲気を忘れても、イタリー亭の雰囲気とオニオングラタン・スープ、パスタの味はおぼえているか、忘れていても、ひょんなことで思い出すだろう。自分を確かめるように話していた彼女の楽しげなようす、明るい笑顔がよみがえる。食べることは二の次、笑顔や、話している彼女の表情の変化に魅了された。
 
 よく食べ、よく話した。あたしは話し手、あなたは聞き手。話の内容にかかわらずあなたはぜんぶ理解してしまう。それがわかっているからあたしは話す。そういう按配で彼女は私を確かめ、お互いを確かめ合ってきた。話したことも、あえて話さなかったこともわかり合えた。そう思えたのは、彼女が手紙にそう書いていたからである。
 
 銀座や日比谷に出るときは電車を利用した。早稲田駅から地下鉄を乗り換えたり、下宿先から直接向かう場合は地下鉄銀座線。帰路は夜も更けているので、彼女は「見送りはいいから。ウチの近くまで来たら帰りの終電なくなるよ」と言い、有楽町駅で別れた。
「夜の電車の窓ガラスに映る自分の顔をみるのはイヤ」と言っていたが、私も以前からそう思っていた。夜の窓に映る顔は実物より陰気にみえるのだ。外見も内面も暗いはずはなく、むしろ明るいほうだと思っていても、夜の窓ガラスの顔は、朝顔と夜顔の違いどころか、腐りかけた花のようだ
 
 別れて何年たったろう、伴侶とイタリー亭へ行ったことがある。伴侶には何度もここで食事をしたと話していた。オニオングラタンスープを食べたいと伴侶は言っていた。再訪することはないはずの場所に来たのは私の意思ではなかったが、オノオングラタンスープをひとくち食べた伴侶の顔がかがやいたのを見て安心した。
心のなかで思ったのは、彼女が配偶者と共に来ることはないし、配偶者以外の人間と来ることもないだろうということである。なぜそう思えるのか。来ればよみがえるからだ。思い出したくないからだ。
 
 避けようとして避けることのできることもあれば、避けられないこともあり、忘れようとしても忘れられない過去もある。乗りこえねばならないと思いつつ、乗りこえられない過去もある。
人生の最晩年にさしかかっているいま、記憶は日々薄れ、体力の減退する自分をもてあまし、日増しに募る脱力感に追いつめられ、階段を上るのも日々つらくなっている。毎月恒例の京都での夕食も先月はパスし、今月も危うい。
 
 食事力ということばがあるかどうか別として、しんどいときに旅行とか観劇に出かける気がしないのと同じ理由で、食べに行こうという力がわいてこないのだ。そういう事情でこういう思い出にふけるのかもしれず、日々健康であれば、「思い出レストラン」を開店することもなかったろう。
 
 このようなレストランで伴侶の炊事の手間を省けるものではなく、また私が満たされるわけでもなく、しかし、食事力が衰えても追懐力が衰えないのはなぜか。考えてもこたえは出ない。「思い出レストラン」はもうすこし開店している。
 

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