2019年10月3日    北大和 京大和
 
 1990年代半ばごろまで大阪市北区堂山町にあった「北大和」は「南地大和屋」が1951年に開業した料亭である。大和屋は明治10年(1877)創業時、芸妓仲介専門のいわばブローカー屋だった。明治43年(1910)芸者学校を創設、1912年に料理部門もつくって茶屋を営むようになる。
 
 昭和にはいってミナミ畳屋町に料理屋「阪口楼」をひらき、戦後まもない昭和24年(1949)には京都市東山の「高台寺」そばに「京大和」を開業した。その後、東京、横浜に新店(大和屋・横浜そごう店)をオープンしている。
 
 北大和で初めて会食したのは1970年代後半、所用で前を通りかかったところ、このような場所(近隣は小規模ビルと事業所が林立)にずいぶん粋な、高級感のある料理屋がと記憶に残った。それから数ヶ月たったある日、近くの小さな映画館で洋画をみた帰りに前まで行った。
なかから番頭らしき人が急に出てきて顔を見合わせる。好印象をうけ営業内容をたずねようと思ったら、どうぞ中へということで入った。
 
 その後のことは思い出せない。おぼえているのは、玄関を入って右側に引き戸数枚で仕切った12畳か15畳かの独立した座敷があり、座敷の手前にテーブル席が8席ほど、通路の奥は厨房。
北大和の1階は料亭「林泉」といい、2階、3階の料亭「北大和」と棲み分けされていた。分かれていたのは部屋、料金、担当仲居だけで板前は同じ。最初に利用したのは林泉である。
 
 宝怏フ劇の男役みたいな仲居が常駐していて、体型はほっそりだが大柄すぎて着物は似合わない。着物(制服)の色は浅葱(あさぎ)。6月から8月の着物は絽とか紗で、色も浅葱ではなかったと思うが忘れた。鼻高く目大きく面長、派手な化粧も宝怏フ劇。洋装ならどうにか恰好もつくけれど、和装では相当アンバランス。
 
 1928年、寄付金によって開院した大阪・北野病院が近くにあり、当時の医者は京都大学医学部出身。「北大和」の「北」は「きた」とも「きたの」とも読み、北野病院の名はこのあたりが「北野」と呼ばれていたことに由来するという。現在の北野病院は元の場所からすこしだけ離れた所に2001年建設。
 
 「林泉」の料理の味は当然のこととはいえ上階の「北大和」と寸分違わず、個人的な集まりは料金が半額(一品少ないのと、刺身の種類が一種少ない)の林泉を利用した。
私たち夫婦の結婚披露宴を梅田のホテルでおこなったさい、披露宴出席者MK君と欠席者MY君など数名(伴侶の親友)と二次会の席(夜間)を設けたのも林泉。MY君は会食の件をかすかにおぼえているかもしれないが、温泉巡りと盆踊りのMK君はきれいさっぱり忘れているにちがいない。
 
 途中から北大和の店長として赴任してきた三木さんが、1年経つや経たずのある日、「来月の異動で京都へ行くことになりました」と言った。それからも北大和へ何度か行き、そして数年後、祇園祭のコンチキチンが聞こえる7月初旬、誰を接待したか記憶は定かでないのだが初めて「京大和」で夕食をとった。
 
 1980年代は多忙をきわめ、会食した料亭は大阪、京都をふくめ数十軒にのぼり、三木さんのことはすっかり忘れていた。京大和からの帰りぎわ、高台寺駐車場の横の駐車場へ車をとりに行こうと入口を出たところでばったり。
 
 タクシー数台に分乗した上得意らしき客を見送る彼の痩せた長身、白い顔、うやうやしいようすがほの暗い闇にぼんやり浮かびあがる。振り向いたら男の顔があったからか驚いた顔になる。名前を呼んでも自失顔。「北大和の‥」と私が言って思い出したのか、思い出すふりをしたのか、あぁ、そうでした‥という顔になる。
 
 京大和は勤王の志士(武市半平太、久坂玄瑞、桂小五郎など)が秘密裡に会っていた「翠紅館」(すいこうかん)の跡地。「京大和」の住所は東山区高台寺桝屋町359。
入口はゆるやかな石畳の上り坂途中にあって、入口から右手(西)に行くと八坂の塔が間近にせまり、祇園界隈を一望できる場所があり、当時は緋毛氈を敷いた縁台が数台置かれていた。
 
 1時間前「文の助茶屋」本店で会った17代目中村勘三郎とまた会った。あっちが先に縁台に坐っている。舞台以外では見たくもない顔なので目をそらしていたが、たまたま目が合ってしまう。「どちらはんどしたかな」と勘三郎が嫌味っぽく言ったときの険のある目と顔。
ほとんど最晩年の勘三郎だったけれど、さすがに歌舞伎役者、実年齢(76〜77歳)より10歳は若く見えた。そんな仇討みたいな顔したら、麻生地で誂えた白の上下が泣くぜ。
 
 楽しい追懐を壊すのは、「先生」と呼ばれなければツムジを曲げ、役者仲間内で超わがままの呼び声高かった先代勘三郎の不機嫌顔である。
京大和からの眺望は接待向きなのでその後、秋と春に行ったが、料理でおぼえているのは魚麺のツユの味だけ、ふくれっ面を上書きしたような勘三郎のふくれっ面は鮮明におぼえている。表情が真に迫っていたのは演技していなかったからだ。あの顔で「仮名手本忠臣蔵」の高師直をやれば、憎たらしくて弁当箱が飛んでくるかもしれない。
 
 京大和で思い出すのは「とし」という50代半ばの仲居。物腰やわらかで化粧薄く、わざとらしさがなく、甘いも酸いもかみ分けていても顔に出さず、人柄のよさがにじみでているような人だった。
予約時、「担当はとしさんでお願いします」と言ったものである。あれから30年数年、北大和は1990年代に店じまいし、京大和からも足が遠のいた。       

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