2019年8月7日    嵐亭 嵐山
 
 1980年代は多忙をきわめた。と随所で述べたような気はするが、4日前はおぼえているとして、数週間経つとどこに何を書いたのか定かではなく、また同じことを書くのではないかと思えば嫌気がさす。
この1年、記憶の衰えと体力の劇的変化がおきた。記憶のほうは自分のHPに散々記してきたので、思い出せなくてもそこを読めばそういうことがあったのかと思える。書き残しておいてよかった。
 
 体力の減退はどうしようもなく、語ることさえ億劫。皮下脂肪がなくなり、皮膚も極端に薄くなってしまい、真冬は身体の芯まで冷え、真夏は太陽が皮膚を突きぬけ、直に肉をあぶるという感じなのだ。うだるような暑さというが、そんな生やさしいものではなく、燻製になるとでもいおうか、ひからびた燻製一丁上がりだ。
 
 ことし3月ごろまでは往時出会った美形が次々あらわれたのに、サクラ散るころ美形のすがたはぼやけはじめ、思い出すことといえば、紋別の年寄りや銀座のかつ丼屋にいたばあさん。
千疋屋へ行った木村さんは同い年で、1年下の後輩田原さん同様、生きているかどうか不明。死んだかもしれない、ふたりとも線が細かったから。結局、自分が古くなりすぎたせいでなおさら「古き良き時代」を偲ぶのか。
 
 平成はじめは好景気に沸いた。べらぼうな出費でも許容される異常さが常態化していたが、頃合いの料金でおさまる嵐山・嵐亭を接待地に選んだのは、洛中をはなれた保津川のほとり、対岸に嵐山というロケーション、延命閣、八賞軒という古めかしい家屋を人数により選択できたからだ。
1980年代後半、嵐亭には玄関近くの約10台駐車可の駐車場のほか、そこから渡月橋に向かって20メートルほど左側(「宝厳院」方向)に砂利を敷いた広めの駐車場があった。
 
 駐車場と玄関を往き来していたのは嵐亭の法被を着た70歳くらいの老番頭。嵐亭の歴史をしょっているかのような背中、延命閣に劣らぬ古色蒼然とした、しかし上品な風貌、竹ぼうきで砂利に落ちたモミジを掃くすがた、駐車案内しているやわらかな物腰を見て番頭と思ったけれど、そうではなかったのかもしれない。
 
 「広いですから、どこでも駐めやすいところに駐めてください」と老番頭は言った。もみじは沢山植えられていても、木と木の間隔にゆとりがあって、よほどのヘタでもなければ車を木にぶつけることはない。
 
 嵐山「嵐亭」の料理は、先々代の料理長時代が最もよく、2005年10月9日、某同好会OB会で一席もうけたとき、ちょうど調理長の交代期にさしかかり、かろうじて先々代の味だった。その後、京都駅そばのホテルにあった「嵐亭」の料理長が嵐山に派遣されたが、そのころは腕もたいしてよくなく、徐々に腕を上げていった。
 
 嵐亭1Fには「レストラン嵐亭」があり、宿泊客の夕食と朝食のほかに外来客の昼食、夕食、喫茶も提供しており、特に8000円からの懐石料理は美味なのだが、交通の便のよくない嵐山にあるせいか、桜と紅葉の季節、京都三大祭日を除けばすいていた。
どのみち電車バスなどの交通機関を利用せず交通の便は関係なかった。日中の嵐山はそのころでも12月中旬〜2月中旬以外は観光客で混雑していたが、会食する時刻になると人もまばら、夜ふけは車も歩行者も途絶えた。
 
 渡月橋をわたる観光客はすがたを消し、まして渡月橋の上流は不気味な静寂につつまれる。そして深閑たる夜は嵐亭相手にひそひそ話をする。耳をそばだてても密談は聞こえない。保津川のせせらぎも黙りこむ。ライトアップされた渡月橋と、かがり火に照らされた延命閣のえもいわれぬ美しさ。
 
 1993年秋、卒然と老人は消え、それから17年過ぎて嵐亭は取り壊された。あれほど法被が似合い、容姿と物腰を見るだけで人生が見えてくるような番頭はいなくなった。嵐亭の老人は最後の老舗だった。
 
 駐車場から門をくぐり、玄関へ向かう砂利道にも風情があった(下の画像=玄関側に向かって撮影 2006年12月11日)。保津川が垣間見え、初冬の紅葉は格別である。
門をくぐって左のもみじは一段と美しく、うれしいことに紅葉の時期はおそい。嵐山や嵯峨野の名刹を訪れる人が去ったあと、嵐山は閑散として静寂につつまれる。嵐山への外国人観光客は増加の一途をたどったが、嵐山・嵐亭をおぼえている人は激減した。
 
 嵐亭は川崎正藏(川崎造船所=後の川崎重工=設立者 1836−1912)の別荘として明治後期に建てられた。川崎正藏は日本最初の私立美術館「川崎美術館」の開設、神戸新聞の創刊などでも知られる実業家。
1963年「嵐亭」と命名され、洛西を代表する料亭となり内外賓客を遇し、1966年11月には昭和天皇皇后が行幸された。西に嵐山公園が、北に宝厳院、南は既述の保津川が隣接する。
 
 あれから悠久とも思われる時が過ぎ去った。感動は長続きせず、追懐はくりかえされる。自然界で人間ほど複雑な生きものはいない。なぜこうもムダが多いのか。積もりに積ったムダの瓦礫で押しつぶされないのが不思議。
 
 嵐山嵐亭は変遷を遂げながら2009年まで営業をつづけた。心に去来するのは、番頭がいなくなったとき、「古き良き時代の嵐亭もこれで終わった」と感じたことであり、そしていま私は老番頭の年齢になっているということである。
 
 
               2006年12月11日 嵐亭 八賞軒


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