2019年8月3日    日比谷松本楼 梅田
 
 戦後復興の一助として大阪キタに演劇の殿堂「梅田コマ劇場」が創設されたのは1956年。その西に1980年10月、地上10F地下2Fの複合ビル「ナビオ阪急」がオープンした。
ナビオ(Navio)は船(ポルトガル語)の意。1F〜5Fは主にファッション関連店舗、特に5Fはエルメスなど日本進出に乗り出した海外ブランド店が占め、6Fと7Fはレストランだった。
 
 日比谷「松本楼」梅田店は6Fにあり、6Fと7Fで営業するレストランに較べると広いスペースを持ち、店内の装いもシックで高級仕様なのだが、料金は手頃な範囲におさまっていた。
1980年代は、きょうは札幌、あしたは香港、あいまに京都案内といった日々に忙殺され、梅田で夕食をとる時間はなく、接待先で来客と懐石料理が関の山、まだ30代というのに、身体は悲鳴を上げた。
 
 そういうなか家庭を持ったものの、伴侶とふたり夕食に出向く時間ができたのは80年代半ばを過ぎたころ、当方は30代半ばを過ぎていた。
ナビオ阪急へ行くのも、食事するのも初めて。下調べもしておらず、在京時代は行ったことのない日比谷「松本楼」に入ってしまった。そのとき偶然、注文をとりに来たのが店長の長澤さんであった。小柄ではあるが、がっしりした体格、日焼けして精悍な、しかし体育会系ではない、数歳年上という印象を受けた。
 
 「お客さま、以前、日比谷本店に来られたことありましたか?」と言う。「いえ、ないです」。「お仕事か何かで都内にお住まいになったことは?」。「ええ、学生のころ少しばかり」。
それだけの会話だったけれど、どこか通じるものがあったのだろうか、数ヶ月たった二度目で打ち解けた感じになり会話もはずんだ。アウトドアの日焼けではなく屋外作業の土方焼け、地黒ですと言う。長澤さんの日焼けは夏も冬も変わらず、常に夏の人だった。
 
 ある夜、食べた料理はおぼえていないのだが、手頃な白の辛口ワインでお奨めは何?と聞いたらば、ピノ・ブランはどうでしょう、アルザス原産ですが料理を選びませんし、量産ワインなので手頃感もありますと言うので注文した。
そのころの白ワインといえばやや甘口のモーゼル、あるいはラインガウを飲んでいた者にピノ・ブランは新鮮で、それほど辛口でもなく、たしかに料理を選ばない。「ボジョレーヌーヴォー」ブームが押しよせる数年前の話である。
 
 ハイビスカスを初めて見たのはいつだったか忘れたが、いっぱい咲いているのを見たのは1968年7月、指宿だった。花弁の縁はぎざぎざで、その7、8年後自宅ベランダで栽培したものも同じ。カンナが欲しいところなのであるが、背丈が高くないと魅力の薄れるカンナは鉢植にむかず、ハイビスカスでも楽しい。
 
 幾度となく引っ越し、夏が来ればハイビスカスの鉢植を買った。今回も買った7月初旬、花弁の縁はぎざぎざで、朝日が上るとともに新しいツボミが開き、日が傾くにつれて巻き込むように閉じ、夜中に落ちるのを10回以上くり返した。8月1日朝開いた花弁の縁は丸く縁取りもあり、雌しべが南洋的にニョキっと突きだしているから見分けがつくようなものの、花弁だけ見たら何の花だか。
 
 ナビオ阪急・松本楼は1990年代に入って2年近く足が遠のいた。阪神大震災(1995)の翌年だったか、久しぶりに夕食をと前まで行ったが別の店になっていた。
ナビオ阪急はその後、2007年10月、映画館以外の店舗はすべて閉店し、装いが新たになった。
渋い面立ちの長澤さんを思い出すとハイビスカスを連想するのはおそらく、黙っていると渋面に見えるがしゃべり出すと陽気で、原色の花が開いたように明るくなるからだ。自分自身と共通している何か。冬でも夏の顔。
 
 記憶は宝ものと言ったのは誰であったか。記憶が消えれば、記憶が消えていることさえ忘れ、自分が何者であるかも忘れる。愛おしくなくても記憶の裏付けは要る。そして愛おしさは記憶とともに生きる。
 
 
             ハイビスカス(イエロー))&クロサンドラ(オレンジ)


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