2019年7月20日    ホテルのレストラン アグラ
 
 場所はわからない。笑いながら押し問答していた。「おにいちゃん、ヘンだよ」。4歳年下の木内さんは21歳。私の身体に異変がおこり、怒りっぽくなっているのは内臓疾患に関係している。
それを知らない木内さんは、「おにいちゃんらしくない。早いよボケるには」と笑う。「暑くて眠れなかったけど、おかしかったね、アグラのホテル」。そう言いながら木内さんはキャベツの陶器を見せた。「これ。おにいちゃが‥」。
 
 長年交流のあった女性と別れて4ヶ月後モロッコへ逃亡し羽田に着いた夜、空港まで迎えに来るはずのない木内さんが佐藤さんと共にあらわれ、旅の話も聞きたいから下落合のマンションへ行くといってきかなかった。
土産を用意したわけではなく、これならと渡したのが、モロッコからの帰国途上リスボンで衝動買いしたキャベツ模様の陶器。「いいの?」。高価そうにみえたのか、木内さんは言った。
 
 「アグラは寝苦しくて、外に出て空みてたよね」とつづける。アグラ到着までの2週間、冷房の効いたインド鉄道のコンパートメントで過ごしていた私たちは、タジマハール見学後、アグラのホテルに2泊した。
ホテル客室のエアコンは故障しており、天井のプロペラ扇風機のみ、ベッドに横たわると温風が安眠を妨げた。扇風機のスイッチを切っても暑い。日中の気温は43℃、午前零時を過ぎても室温36℃を下回ることはなく、屋外に出たのだ。
 
 列車の乗客のうち何人かが庭先にすわり、うらめしそうに空を仰いでいる。屋内外の温度はほとんど同じ。その日の夕食はホテルのレストランで木内さんたちと一緒に食べた。レストランのエアコンは稼働している。
彼女が「おかしかったね」というのは暑さのことではない、レストランの漆喰の白壁にヤモリが数匹へばりついていた。「天井にくるかも」と佐藤さんが不安顔。「這いつくばってなさい」と木内さん。料理は「これまでで一番」と女性2人の言。翌日、朝食を食べ終えるころ従業員がエアコン修理完了を知らせた。
 
 「アグラの2日目、わたしと佐藤さんはスリナガルへ行ったけど、おにいちゃんはタクシーをチャーターしてマツウラさんとこ行ったでしょ」。マツウラさんじゃない、マトゥーラ。マトゥーラはアグラの北50キロほどにあり、ヒンドゥー教7大聖地のひとつだが、ヒンドゥー教はどうでもよく、1〜3世紀に繁栄したクシャーン期の仏像がマトゥーラ博物館に展示されている。ガンダーラ仏とは一線を劃す異形のマトゥーラ仏。
 
 「おにいちゃん、やっぱりヘン」。木内さんがクチにした二度目の「ヘン」で目がさめた。夢だった。たしかに体力が著しく低下し、耄碌したとも思う。やっぱりヘンになっている。木内さんの言葉「ヘン」は私の心の声だ。眠れない夜に一生を過ごす。昔日のたのしい夢は短い、極楽は日が短いように。悪夢の長さはなんとしたことか。
 
 夢の数日前の7月14日、「小さな旅=星空列車で逢いましょう〜長野県JR小海線」(再放送)というテレビ番組をみた。映像はJR・鉄道最高地点(1375m)野辺山駅。機関車の車輪を祀る鉄道神社が駅のそばにあり、2つで1つの車輪は夫婦円満ということらしい。
神社を建てたのは近くの食堂の店主たち。神社の隣の「そば屋」を営むご夫婦がおられ、奥さんが登場したとき息を飲んだ。60歳ほどであるが、木内さんにそっくり。木内さんのほうが年上としても、生きていればほぼ同年代、そういう感じになっているだろう。「ちろりん村とくるみの木」、「ひょっこりひょうたん島」の仲間のように癒やし系なのだ。
 
 映像は子どもたちがアイスクリームを買うシーンになり、アイスを子どもたちに手渡す顔が映し出される。まちがいない。松本出身の木内さんのことは2019年2月10日「インド鉄道 コンパートメント」にも記した。
「古き良き時代」はペン癖なのかもしれない。いったん廃止された路線が有志のボランティアによって復活再生し、幸せな余生を過ごす英国保存鉄道。夢の実現などはかない夢だが、英国の限られた人々は限られた夢をはたす。
 
 ペン先からにじむインクのにおい。古き良き時代は草木の衣装をまとい、永い眠りについた。レストランは異様なほど増え、人間同様つまらなくなった。家庭料理でこき使われた鍋、フライパン、包丁は消えた。何千回洗い、磨き、拭いたろう。無数の細かい傷がつき、表面がはげ、ぼろぼろになるまで。
 
 以前なら心を動かされたことでも心が動かなくなった。さまざまな経験を積み、感性が変化したからだろう。使い古されて透徹する感性。遠い昔そういう人がいて、そういうレストランがいまなお思い出となって生きている。

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