2019年7月13日    千疋屋 銀座
 
 初めて千疋屋に行ったのは1968年10月、通学のため渋谷で暮らすようになった年の秋、千代田区岩本町に住んでいた女性と共に築地から日本橋方面へ向かって歩いているときだった。古めかしい2階建ての1階はくだもの屋になっており、入院見舞いのような品々の奥に熱帯産のフルーツが並んでいた。
 
 「そこ、上がって」と彼女は告げ、階段を上がったら2階はテーブルとイスがセットされたパーラーだった。メニューはフレッシュジュースがぞろりと並び、どれにしようか一瞬迷ったが、自分が払うならミエを張ってメロンジュースを注文した。彼女はジュースではなくグレープフルーツと言った。半分に割ったのが出てきた。初めて見た。
 
 同じサークルに所属していたがサークルの話題は避けた。その女性はスリムな体形をしていて、容姿が特別すぐれていたわけではないが、話し方と間のよさが魅力的だった。
会話が途切れても受けの姿勢と雰囲気が自然で、気遣いしなくても空気はよどまず、心地よく流れた。話し終わって勘定書きを取ろうとすると、「わたしがさそったからわたしが」と言ってゆずらなかった。
 
 彼女は4人兄弟の末っ子。長女、長男、次男、本人と全員W大。ご両親は新潟出身。そのせいか新潟に関心を持っていた。年の離れたお姉さんの配偶者はW大文学部教授のKKさん。日本オリエント学会の理事を務め、弟子のひとりに吉村作治氏がいる。KKさんは1967年W大古代エジプト調査隊の初代隊長でもあり、毎年エジプトへ発掘調査にあたっておられたが、1978年急逝された。48歳だった。
 
 吉村作治氏とアラブ人(エジプトの富豪の娘らしい)の奥方の話題になったこともある。奥方は新宿駅南口近くにアラビア料理店「エルダール」を経営していて、義兄から一度行ってあげればと言われているが、まだ行っていない、行く気もないと素っ気なかった。そういところが楽しい女性だと思えた。率直で飾り気がないのだ。
 
 千疋屋は銀座店へも行った。コーヒーを飲まない女性であり、当時のコーヒーは濃く、私は濃いのが苦手だったから好都合。メロンジュースは一回だけで、ぶどうジュースを注文することが多かった。100%生のくだものを使い、まぜもののないジュースの味は濃厚であっても執拗ではない。
 
 彼女は主に家族の話をした。特に多かったのがお姉さんの娘の話で、その子の話をしたら熱が入り、クチぶりからすれば姪は利発な子で、彼女のお気に入りだった。
しかし世の叔母バカのごとくかわいくてたまらないというふうではなく、皮肉の粉をまぜていたのがいかにも彼女らしく、おかしかったのは、「皮肉まじりに言っても、あなたなら額面通り受け取らないでしょ、わかってる」と言いたげな顔をしていたことだ。
 
 千疋屋の話にはつづきがある。1969年のいつだったか、なぜ新橋あたりを歩いていたか思い出せないけれど、北陸出身の朋友と銀座の千疋屋に入ったことがある。そのとき彼はコーヒーの3倍の料金に、「こういうところは最初で最後になるかもしれないなぁ」と言った。
1968年秋〜冬、早稲田西門から高田馬場駅まで北陸の友、そして首都圏に住む友と歩き、駅近くに来ると首都圏が言う、「一杯やっていこうか」。首都圏は酒呑み。北陸は甘党だが、つきあいがいいというより断れず、「そうだね」と返事する。そういう返事はすべきでなく、「オレ、帰る」とか何とか言えばいいのに。
 
 で、しかたなく私もつきあう。首都圏の常套句は「ケイコ」。わずか3字なのであるが、これが魔法の粉。酒に酔わず、ケイコの名をクチにして陶酔する。田園調布の有名女子学園出のケイコさんは同じサークルの他班所属。北陸の友もそこ所属。私は野球大会のための区民グランドを借りようと、ケイコさんの自宅がある品川区へ首都圏と行った。
 
 呼び鈴を押せばすむのに首都圏は押さない。私に押させたいのである。押したら本人ではなく男性が出た。まもなくその人が出てきて、「妹はいるにはいるんですが」と言う。連絡もせず突然だからへそを曲げているのかと思った。男性は首都圏の甘いマスクとは異なる渋いマスク。ふたたびケイコさんを呼びにいく。
 
 けっこうな時間待たされ、やっと彼女があらわれた。顔に昼寝と書いてある。寝込みを襲われたという感じで、ひどく不機嫌な顔をしていた。横を見ると首都圏の顔に「寝起きもまたいいね」と書いてある。
 
 そういうケイコさんの話を自分がするのではなく私に話させ、北陸の友に聞いてもらうために「呑もう」と誘う。北陸の友は決まってジンライムを注文した。2019年6月、京都の小さな料理屋で何杯目かの酒に彼がジントニックを注文し、「学生時代はよく呑んだ」と言う。ジントニックじゃないだろ、ジンライムだよと言ってもハテナ顔。
 
 北陸の友はその後、千疋屋では十分と思わず、全国でもない津々浦々のスナック、ホテルのバーなどハシゴをのぼるようになり、千疋屋の階段をのぼって発した「最初で最後」はかりそめの文言となった。
不機嫌か、怒っているかのケイコさんに惚れた首都圏の好みは結局、彼の細君で証明される。容姿はケイコさんに較べるとかなり劣るとして、不機嫌になりやすい性質が似ている。あれから50年、あっという間に過ぎ去った。

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