2019年6月7日    関西風かつ丼 銀座五丁目
 
 1974年、住み慣れた都心を離れて京阪神の実家にもどったのも束の間、何かにつけて都心へ出向く機会が重なり、1970年代初め、日比谷映画街から夕食のために通い、知り尽くしている銀座界隈で昼食という日々が1970年代半ばを過ぎてもつづいた。
 
 当時はレストランの格付けとかの面倒くさいこともなく、ふらっと入って味がよかったり、店の雰囲気がよければ次も入るという按配で、そういう店のひとつが銀座5丁目「松坂屋」(2013年6月閉店)裏、あづま通りの角にあり、「関西風丼」を提供していた。ほかに酒飲み用の一品料理も数多くあったけれど、酒飲みでない者はもっぱら丼である。
 
 給仕が印象に残っている。といえば朋友は若い女を期待するだろう。しかし丼をはこぶのは婆さんで、それも、わるくいえば無愛想、よくいえば非粘着、いづれにせよ言葉を発さない小柄で痩せた年寄りである。若いころの常として昼どき(正午〜1時)を避け、おおむね午後1時半を回ったころに入店するので、店内の客は数人、どうかすると私ひとりのこともあった。
 
 そういうとき婆さんはいっそう無愛想になる。年寄りのぶさいくなババアでわるかったねといわんばかりの素振りが丼と違って関東風なのである。私が視線を合わせまいとするとそういう顔になる。
ふつうはそれで料理の味が落ちたりするが、そこのかつ丼は関東独特のご飯の上にキャベツの千切り、その上にトンカツが乗り、またその上にトンカツソースがといった、どうしようもないかつ丼ではなく、正統派関西風かつ丼。やわらかい玉子とじ、タマネギが入って、みつばが彩りを添えている。関西ではみつばより笹がきネギを多用する。
 
 決め手はダシ。カツオぶしとダシ昆布をふんだんに用い、日本酒、みりんを足し、濃いくち醤油を少なめにたらし、微量の塩で味をしめる。ほんとうのプロはタマネギの甘みを利用し、砂糖を使わないでしょうと伴侶はいうが、手料理はひとつまみ(数グラム)の砂糖をふりかける。豚肉はロースでもヘレでも可。
 
 家庭料理なら花がつおと利尻産昆布(または礼文産)をたっぷり使える。しかし、手頃な料金の食べもの屋でそれをやっていると採算がとれない。かつおぶしではなく、少量でダシの出やすいサバぶしが利用され、昆布も安価なものを使って調理される。したがって家庭料理ほどの味は出ない。それでも結構な水準まで上げてくるのがプロ。
 
 あづま通りのかつ丼が他店と異なったのは、トンカツを包丁で切って6〜7コにするのではなく、複数のひとくちカツを丼にのせていたことだ。家庭料理ではひとくちカツを使っても、昼どき客の多い店でそれをやると手間がかかるのでやらない。タマゴ、パン粉、油の量も増えて利益も減る。
銀座5丁目の婆さんの店は関西風味付けのみならず、こだわりがあったのだろう。だから通った。婆さんは常と変わらぬ淡々たるようすで、地味なグレーの長袖ブラウス、あるいはカーディガンに黒のスカート。白髪の混じったかさかさの薄い髪をうしろで束ね、長谷川町子の漫画に出てくる婆さんである。
 
 店は小さいながらも独立店舗であり、目立つ店構えでもなかった。そこがよかった。裏通りに低料金でおいしい店があった。現在、その場所にビルが建ち、店があった角はベルギーチョコレート店となっている。
 
 1970年代半ば〜後半、70過ぎと思えた婆さんはまだ60歳くらいだったのかもしれない。歩きかたが楚々としていたような気がする。20代の私から見て年寄りだと感じたが、婆さんより年長のいまとなってはむしろ当時の婆さんのほうが若かったようにも思えてくるのだ。婆さんの容姿はおぼえているのに店の名は忘れた。
 

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