2019年2月7日    中村屋 新宿
 
 1971年春のある日、「カレーが食べたい」とその人は言った。日比谷の映画街で外国映画をみた帰り、おやつ時なら帝国ホテルの1F「コーヒーハウス」でババロアを、夕ぐれ時なら銀座一丁目の「イタリー亭」で夕食をとるのが恒例みたいになっていたが、刺激的なものを食べたかったのだ。
 
 記憶をたどっても、映画のタイトルや内容をおぼえておらず、映画の影響で刺激物を食べたいというような女性でもなく、かといって、どこか素直な人でもあり、自然の流れでカレーと言ったのかもしれない。
「どこかおいしい店、知ってる?」と聞くと、「行ったことないけど、新宿の中村屋は?」と言う。私も行ったことはなかったが、中村屋はカレーと呼ばずカリーと呼ぶと前に聞いたことがある。
 
 「銀座から丸ノ内線で6駅か7駅だから、そう遠くはないよ。どお?」。「いいよ、行こう」。「決まりね」。
中村屋のカリーはシティホテルのレストラン同様、ルーの入っている容器とライスの皿が別にあり、カリーの野菜は何日もかけて煮込んだのか原形をとどめておらず、やや大きめのチキン(部位不明)が数個のチキンカリー。「もっとインドっぽい香料の味で、スープみたいなルーと思ったけど、そうじゃない」と彼女は言い、「うん、いける。ご飯に合う」とつづけた。
 
 ルーもライスもかなりの量だったが、ぜんぶ平らげる前に、「これじゃ足りないと思うよ。もう一品、食べる?」と私にたずねる。「そうねえ」とメニューを見ると、見たこともないアラカルトが書き連ねてあり、「これどお、シャシリック」。「シャシリックってなんだろう」。「知らない。店員に聞こう」。
 
 シャシリックはロシア料理で、鉄製(ステンレス?)の大きな串にラム肉を5〜6個刺し、カマドか何かで串をまわしながら焼く。ラム肉の串刺しである。インド独立運動に身を投じ、大正初期日本に亡命し、後に中村屋経営者の娘と結婚したインド人が日本風インド式カリーを考案したという話を彼女はしながら、そんなことはどうでもいいねという感じで豪快に串刺しを食べた。
 
 以来、新宿中村屋で夕食をとるときはカリーとシャシリック、またはカリーとボルシチが定番となった。そしてピロシキもたまに加わった。ビーフ・ストロガノフも食べた。インドとロシアの組合わせはヘンな気もしたけれど、ヘンに思わせないのが彼女の食べっぷりと快活、躍動感だった。
 
 その年(1971)の1月だったか、浦和市(現・さいたま市)の郊外にある彼女の自宅へ送りがてら、国道17号線の北区蓮根から戸田(埼玉県)に向かう道中、当時としては瀟洒な中華レストランがあり、夜おそくまで営業しており、夜食だったか、おそめの夕食か忘れたが食事した。五目焼きそばを注文すると椎茸が入っていた。
いつだったか、「何か嫌いなものある?」と聞かれ、「シイタケだけはダメ。子どものころからシイタケのにおいがすると車酔いの気分になる」と言ったのをおぼえていたのだろう、「シイタケおいしいよ、食べてみなさいよ」と言う。
 
 その瞬間、魔法の粉でもふりかけたのか、シイタケ特有のにおいは消え、歯ざわりのよい野菜に変身した。「その顔はイヤではない顔だね」と言い、そのあと何をしゃべったのか、彼女の家に着いたのは午前零時ごろだった。
それからまもなく出張サービスでビーフシチューを作り、すき焼きも作った(「書き句け庫」2006年2月13日「姉妹の料理番」)。
 
 料理が成功しても味の記憶はほとんど残らない、感動が永つづきしないように。それでも共に食事をした人たちの記憶は残る。あれからまたたく間に50年近い歳月が過ぎ、最もおいしいカレーは伴侶の作ったカレーとなっている。
 

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