2019年5月4日    ビストロ・ドゥ・パリ
 
 名前からしていかにもパリにあるという感じだが、「ビストロ・ドゥ・パリ」は1980年代、梅田・芝田町に存在した小さなビストロ。5月3日に掲載した「ブラセリー」よりさらに小規模のレストランがビストロ(Bistro)だ。新阪急ホテルを隔ててすぐ北の機械式駐車場の右奥に位置したビストロ・ドゥ・パリは映画をみた帰りに偶然見つけた。
 
 手前の石段を上がり、アーチ形の木製ドアを開くと室内は半月形で、左側にテーブル数個と椅子数脚、奥にカウンターと椅子、右側はL字型の長細いソファと小さなテーブル数個の組合わせといった内装は、こぢんまりとしてまさしくビストロ。
 
 お茶だけでもかまいませんか?と言ったらば、どうぞということだった。午後3時から5時までそういう時間帯なのだ。コーヒーのみとコーヒー+ケーキとで100円違いなのでセットにした。当時、喫茶店のモーニングサービスのほかにその手のメニューは少なく、ましてビストロのような個人店でそういう設定はあまりなかったように思う。
 
 私は30代半ば、伴侶は30代初めで互いに多忙な日々をおくっており、ふたりともおもしろそうな外国映画が上映されればみにいくというふうだったけれど、2〜3ヶ月に一度程度しかいけなかった。コーヒーブレイクは「ナビオ阪急」(当時の名)2F角の「ディンギー」(Dinghy)という小さな喫茶店だった。オーナーがヨット好きなのか、ディンギーは「キャビンを持たないヨット」の意。
 
 名前の由来は、確かめたのではなく単なる推測にすぎないが、ディンギーは横長というか縦長というか、要するに店内は細長く、その形が幅の狭いヨットに似ているということだろう。
どん詰まりにレジがあって(反対側は厨房)、レジに向かって右にビルへつながるドア、左に屋外へ出られる階段(非常階段のような)へのドア。出入口が2ヶ所。阪急電車梅田駅へは階段を降りるほうが近いので、私も伴侶も階段を利用した。
 
 コーヒーは客の注文後、豆をひいて淹れ、焙煎豆が新鮮でまずまずの水準を保っていた。ディンギーではコーヒーよりグレープフルーツ・ジュースを飲むほうが多かった。銀座8丁目だったか何丁目だったか、新橋よりにあった果物の「千疋屋」2Fで飲むグレープフルーツ・ジュースと同レベルなのである。
 
 それで「ビストロ・ドゥ・パリ」のコーヒーはというと、淹れたてだったし、豆のブレンドぐあいがよいのか一定のレベルに達していた。正解だったのは数種類のなかから選んだケーキ。接客したのは、舞台に立った坂東玉三郎のような卵形で美しい面立ち、スラリとした体型のギャルソン。
こちらのマジョレーヌですね、かしこまりました。そう言ってワゴンに置かれた皿をとった。カラフルで風変わりな意匠の皿はエルメスのスカーフのようで、マジョレーヌをのせてご満悦という風情だ。小さなレストランの傑出した趣向。
 
 マジョレーヌの味もこれはと思えるほどおいしく、以降ディンギーへ行く回数は減り、マジョレーヌ行きは増え、しかし伴侶も私もひとりで梅田にいるときはグレープフルーツ・ジュースを飲みにいった。ビストロ・ドゥ・パリはひとりで入りづらいからだ。
ときおり「ケーキ食べ放題」(時間は2時間限定)というハガキがきて、伴侶と共に行ったこともある、私は一回だけだが、伴侶は友人をとっかえひっかえ数回行ったろうか。
 
 ビストロ・ドゥ・パリへは、そのうちと思いながらフランス料理は一度も食べていない。いつか夜もと玉三郎に告げ、忙しさにまぎれて行けなかった夕食。幻のフランス料理。
ビストロ・ドゥ・パリはいつの間にかなくなり、その後ディンギーも閉店した。あのグレープフルーツ・ジュースの味にまさるものはなく、マジョレーヌはさらになく、ディンギーの女性店長のきびきびしたすがた、玉三郎のかわいく、おっとりした顔を忘れられない。

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