2019年4月30日    八雲 札幌
 
 本稿の冒頭にこういうことを書くのはどうかと思いつつ。今上陛下がきょう譲位された。メディアは退位といっているが。天皇は明日上皇になられる。陛下は国民の信頼と敬愛に謝意を表しますとおっしゃられた。
同時代、私たちが誰にもまして、天皇と皇后に対してこれほどの信頼と敬愛を寄せることができたのは稀有。深い感謝の気持ちでいっぱいである。
 
 1970年代半ばに入るとグルメということばが流行の兆しをみせはじめる。あそこにおいしいレストランがあるんですって、行かなきゃねというわけだ。生まれた子どもの家にはテレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンは当然、車もある。石油危機後は徐々に経済も活況を呈し、1990年代初めまでつづき、バブルという名の異常景気までもたらした。
 
 学生時代から年長者に教わったり、自分で開拓したり、京都や都内の安くておいしい店を見つけることに専念していたので、グルメブームは私には関係なかったし、グルメと思われることに抵抗があった。うまいもの探訪は自然のなりゆきだったからである。
 
 食べものにつられて一緒になったと若いころの伴侶が時々クチにしていた。
共に食べるならおいしいものというのは大原則で、独身時代の伴侶に対してというわけのものでもなく、誰とでもというのが自然の流れだった。が、いわれてみれば、以前そういう経緯でほかの女性と交際しており、結果的に伴侶の言は当たっている。
 
 20世紀、70年代と90年代後半を較べると、そして21世紀を較べて変ったことは多々あり、いいもわるいもおおおむね差し引きゼロと大雑把ないいかたをしても特に問題はないけれど、減ったのは交通事故死者である。
80年代、交通事故死者がもっとも多かったのは北海道だ。札幌でも紋別でも同じことを聞いた。内地から来る人たち(観光客&営業)が猛スピードで運転するから北海道が交通事故死ワースト・ワンなのだと。
 
 東京横浜名古屋大阪と近郊の交通渋滞がウソのように道内の道はガラ空き。道路はまっすぐ。景色もいい。制御しきれない猛スピードを出す若者。人も車も増えた。北海道はでっかいどうというキャッチコピーに釣られたものでもないのに時速100キロで一般道路を走る。国道にひょいと出てきたキタキツネが驚いた。
 
 そういう時代にもてはやされたのが札幌のラーメン。たいしてうまくもないのに有名になってしまった。札幌に滞在する日々が多かったころ小樽の友人が、どこそこのラーメンがうまいと言っていたが、行ったことはない。紋別の市会議員が、旭川のラーメンに較べれば札幌なんてと話していたが、旭川のラーメン屋へも行かなかった。
 
 そのころ毎月香港へ行っており、食は香港にありと確信していた。イタリアのパスタ類は別として、麺類で最もおいしいのはイーフーメン(伊府麺)だ。しかし極めつきの広東料理と麺類を除外してもラーメンでこれはというものを日本で食べたことはない。
 
 それゆえソバ。ソバは出雲、信州は二番手。札幌のそば店「八雲」の八雲は出雲の枕詞で、「八雲立つ出雲」。詳細は自分で調べてください。それで「八雲」のそばが出雲そばかというとそうでもない。出雲そばと異なるのは、出雲そばは「そばの実」を皮ごと臼で挽いて「そば粉」にまぜるが、八雲で食べるのはごまのまじった「ごまそば」。
 
 札幌での昼食は、ひとりのときは駅前デパート(そごうなど)の階上に東京系の天ぷら屋とか寿司屋とかの支店があり、信じがたい料金で食べることができたから、デパ地下ではなくデパ上で食べることもあった。内地からの客とか、道内の知り合いが一緒だと「八雲」へ行った。かけ、もり、天ぷらそば。大盛り、小盛りと各種食べた。
 
 食べた人はみな満足気だった。そういう人たちが、札幌に用ができれば「八雲」のそばがいいと伝えたせいか、店内でたまに別の知り合いと出くわすこともあった。昼どき(正午から1時間)は1階も2階(座敷)も混雑していた。それでも客は待った。頻繁に行ったのは1993年までだったが、次々と支店がオープンし、いま何店あるのか私は知らない。
 
 そばを食べるのも月一度ほどになった現在、そばを食べながら思い出すのは北海道の人たちである。みな親切でやさしかった。
 
 1980年代、札幌から車で紋別に向かうとき、国道12号線経由で旭川まで北上し、旭川からは国道39号線で東に進み、上川〜滝上経由で紋別に至る経路と、旭川から国道40号線を北に進み、士別〜名寄(なよろ)と北へ行き、名寄で国道239号線を東に進み、興部(おこっぺ)で238号線を右折(南東方向)して紋別に至る経路とがある。
 
 上川から滝上までの狭隘で急カーブの多い未舗装路は当時、浮島トンネル(3332メートル)が開通しておらず、時間も短いし、運転も楽な名寄経由を利用することが多かった。そういうある日のことである。
 
 なぜ出発がおくれたのか思い出せないが、札幌を発つのがおそくなり、名寄の近くまで来たときすでに日が傾きかけていた。何度も通った道なのに、薄暗いせいもあって道を間違え、気づいたら切り返しできないほどの細い未舗装道を走っていた。進行方向左側に足長の芦が密生し、そのあいだに大きい池が見え隠れする。イヤな予感がしたそのときだった、後輪が粘土質の土に入り込んだのは。
 
 前輪はかたい土の上にあるのだが動かない。後輪駆動ゆえ後ろのタイヤは空回りするだけで動かない。日は暮れてゆく。携帯電話のない時代、細道に公衆電話の影さえなく、いきかう車もなし。伴侶と顔を見合わせた。すると音もなく1台の車がとまり、なかから私と同年代と思われる屈強な男3人が出てきた。
彼らは問いかけることもせず私の車のうしろに回り、「運転席に乗って」とだけ告げ、私が運転席に座るやいなや「せ〜の」という感じで押した。車は瞬時にして脱出した。お礼をいう間もない早さで彼らは走り去った。あっという間の出来事だった。
 
 北海道には紋別のほかにも十分敬愛に値する人たちがいる。八雲のそばを思い出せば必ず彼らの記憶がよみがえる。なつかしい人々。ステキな男たち。

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