2019年4月14日    松乃 祇園
 
 京都市東山区祇園南座東四軒目と書くと知らない人でも南座の四軒目に店舗か何かがあると察するだろう。南座に向かって右側(西)は川端通をへだて鴨川が流れているので、四軒目は左側(東)ということもわかるはずだ。
1980年代初めから1990年代半ばにかけて祇園界隈に出入りしたのは、キタ、ミナミなど食道楽として名高いはずの大阪の繁華街にうなぎのうまい店は存在せず、祇園まで足を伸ばさざるをえなかったからだ。
 
 そのころ特にうなぎが好きだったわけのものではないが、伴侶のつくったカツ丼ほどおいしい店は大阪京都にないし、おつきあいで食べに行ったようなもので、1991年12月、「久しぶりに」と誘われ南座顔見世に行き、幕間(40分)に松乃のうな重「松」を食べ、赤こんにゃくは?と聞かれ食した。
誘ったのは歌舞伎と踊りの好きな母だが、母もうなぎが好きではなかった。なに、ふだん母と交流のある知人夫婦に顔見世へいこうと言い出した母が、昼時の談笑の場をもたせるために私に声をかけただけで、歌舞伎に詳しい(そのころは母のほうが詳しかった)私はいわば座持ちにほかならない。
 
 予約すると松乃は幕間に合わせてうなぎを焼き、店に入るとテーブルに熱々のうな重がのっている。肝吸い、赤こんは定番で、幕間のメニューにしては品数が多いけれど、招待客がいようといまいと、うな重だけではすませないのが母だった。それでも、60代後半〜70代前半の人が平らげられる味と、絶妙の量であるのが祇園という場所柄なのかもしれない。
 
 松竹歌舞伎会というような会員制度のなかったころ、南座は桟敷席、椅子席の別なく良い席は祇園のお茶屋とかしかるべきコネがないと入手できない時代だ。私たちの場合は祇園花見小路の元置屋という強力なツテのおかげで確保できた。
 
 元置屋の一人娘は私より数歳年上、学生時代の友人堀岡の親友N(読売新聞社に入社)が熱を上げ、度々上洛して訪ねたという。娘は同志社大学文学部美学科卒の華道家。20代前半には師匠の座にいた。東男に京女というけれど、響きはよくても世の中それほど甘くはない、ふられるのはおおむね男である。
 
 松乃のうな重を食べるのも2年ぶりだったと思う。平成元年(1989)からの2年間は祇園どころではなく、毎月香港や札幌に行き、あいまに欧州を旅するという日々が続いていた。自宅に帰るのは1ヶ月に5日あったかどうか。
その後、勘九郎(18代目中村勘三郎)、八十助(十代目坂東三津五郎)が花形の名を冠せられていたころ、まだ十五代目片岡仁左衛門が片岡孝夫を名乗っていたころ南座で顔見世以外の歌舞伎をみることもあり、幕間に松乃のうなぎを食べた。
 
 弁当仕立ての「うな重」を20個注文し、取りにきた母の運転手と松乃の店頭で鉢合わせしたこともあった。倉敷や尾道、高松などから来訪した客に、帰りの新幹線で食べてくださいと言う。その人たちの分だけでなく家族の分まで買う。
2人の客に対して8個になると、一人4個とか5個は、持って帰る人もたいへんだと思うが、さめても温めればおいしい「うな重」は好評だった。残り12個は別の家族へ。たまに松乃へ行くと、昔なじみの従業員は顔も名前もおぼえていて丁重に挨拶してくれた。
 
 近年、稚魚の価格高騰でうなぎのぼりに松乃のうな重(松)も税込み5400円。幕間の食事ならともかく、庶民の昼飯には高料金となっていった。赤こんなどを追加すれば7000円かかる。
この10年ほどのあいだにうなぎはほかの店(竹葉亭など)でも食したが、松乃に較べると質・味ともに落ちる。専用駐車場や契約駐車場をもたない松乃は、老いとともに遠く感じるようになり、うなぎ々々々と思いつつ足が向かない。
 
                        
                        鴨川の西側からのぞむ南座


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