2019年3月30日    ラ・ラピエール サルラ
 
 南西フランス・ミディピレネーを初めて旅したのは1999年10月だった。中世からの巡礼地ロカマドゥールに魅せられ、名残を惜しみつつ車でサルラ・ラ・カネダ(以降サルラと表記)へ向かった。ルネサンス初期(15世紀)から17世紀にかけて建造された建築物のほとんどがサルラ中心部に残り、いまも住民が暮らしている。
 
 鉄道を利用してロカマドゥールからサルラへ行くとなると、乗り換える駅が複数あり、おまけに列車の本数は稀少、移動に半日かかってしまう。
車ならD673を西に向かい、D820の交差地点Suillac(スイヤック)で左折し、D703を西に進む63キロの行程。距離はたいしたことはないが、D703に出るまでは、ドルドーニュ川上流の谷あいに沿う隘路ドライブ。分岐点が多く、ルートを確認しながらの走行なので、2時間以上みておかねばならない。カーナビは存在しない時代である。
 
 10月半ばのサルラ着後、古色蒼然とした家並みに心ざわつき、荷ほどきするまもあらばこそ宿の部屋を飛び出し、リベルテ広場に向かった。サルラは百年戦争(1339−1453)で徹底的に破壊されたが、戦争終結前から大々的な工事が施され、50年の歳月をかけて修復された。
その後リベルテ広場と周囲の建物は住民の熱意と尽力により保存され、1962年、法律で保護された。現在は建物自体が博物館となっている。保存状態の良い中世都市はフランスに多いけれど、サルラの家並みは独自の雰囲気がある。
 
 レストラン「ラ・ラピエール」は、リベルテ広場前のリベルテ通りを南へ80メートル行った建物(16世紀ごろ)の1階と2階を占めている。シテ(カルカソンヌ)の本屋で買った「ボタン・グルマン」を参考にして見つけ、散策の途中に寄り、夜の予約をした。
そのときの従業員は、20代後半の好感度の高いオーナーの娘で、当方の嗜好を確かめ、白トリュフと黒トリュフの料理の違いを教えてくれるなどメニュー選びの助言をしてくれた。物腰や表情も自然で柔和、これならと思わせた。
 
 「黒トリュフの田舎ふうスープ」という料理は、スープというより黒トリュフ沢山の野菜ごった煮・石狩鍋で、種々の野菜のなかに黒トリュフがいっぱい入っており、味付けもちょうどよく、深い器に入った料理を平らげた。フォアグラの醤油照焼きも美味で、ほかにもう一品注文したのであるが、何だったか思い出せない。レストランが客でごったがえしていたことはおぼえている。
 
 サルラはフォアグラのほかにクルミの主要産地で、全盛期の14世紀、その2品は町の財源になっていたという。テーブルの上にクルミ割り器をおいているレストランもあり、私たちが宿泊したホテルのレストランには、クルミ割り器だけでなくクルミが大皿に盛られていた。三大珍味の一つトリュフもサルラの名産品である。
 
 
 帰り際、口に合いましたか?と娘は尋ねた。私たちの顔に書いてあったと思うが、満足したときの常套句「モア・ザン・イナフ」とこたえる。お互い英語で会話していた。黒トリュフの田舎ふうスープは1300円(通貨統合前は仏フラン=1フラン約20円)。一人が3品食べて一人分は約4300円。ハウスワインをグラスで飲んでその料金だ。
 
 サルラに「ガチョウ広場」という名の小さなスペースがある。金属製のガチョウが3羽、あっちこっち向いて立っており、記念写真を撮る観光客が集まる。フォアグラとトリュフが町の名をいっそう高めたという。
サルラは金曜と土曜に2泊したので、土曜市(午前中のみ=リベルテ広場ほか)を見学できた。食料品は1時間ほどで完売。ビーチパラソルの露店にぶら下がっていた大量のニンニクでさえ売り切れた。どこから集まったのか、おおぜいの人で市場は活気にあふれていた。
 
 ヨーロッパを旅すると教会広場ほかの広場や通りなどで市場が開かれているのを目にする。中世のたたずまい。名物の土曜市、ラ・ラピエール、そしてマロニエの木々におおわれた歩道。サルラで思い出すのは主に四つである。それらは別々のようでいてつながっている。建物、市場、レストラン、並木道は一枚の絵となって額縁におさまっている。
                 
 
               LA RAPIERE ラ・ラピエール 建物の左部分 格子窓が各階に3つある


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