2019年3月27日    みかわや 銀座四丁目
 
 洋食屋「みかわや」は三越銀座店の裏にあった。銀座4丁目交差点から至近距離なのに、1970年代半ばごろ夕食に来店する人は適度の人数で、予約も取りやすかった。洋風木造2階建ての古めかしい建物は周囲のビルのはざまにあって目立たず、内部も高級を装わない木の床、ウエイトレスのヒールの足音が響き、その音が昭和30年代を偲ばせた。
 
 手配するときは常に2階を指定した。初めて行ったのは1975年6月だったような気がする。コンソメ(スープ)と仔牛のカツレツを注文した。カツレツとデミグラスソースは家庭料理プラスαの味で、ソースは濃くなく、まろやかだった。おいしい家庭料理の味は飽きがこない。
20代半ばだったからカツレツは胃にもたれず、かなり空腹だった2回目はビーフカツレツを食べた。仔牛よりビーフのほうが大きく、料金も高いのだが、カツレツを平らげたらお腹いっぱいになった。
 
 その後、舌平目のムニエルにも挑戦した。ビーフカツより高かったと記憶している。後に伴侶となる女性はカニコロッケを注文した。一品料理のなかで最も安かった。数十年たって、NHKの朝ドラ「ひよっこ」を伴侶とみたとき、主人公(有村架純)が赤坂の小さな洋食屋で最初に注文したのがカニコロッケだったような気がする。
 
 ひよっこのヒロインは初給料で安いものを食べ、伴侶は控えめな性質の反映がコロッケになったわけなのだが、また、銀座と赤坂の違いもあるのだが、値段の高低は関係なくおいしそうに食べる伴侶の顔をみて私も後日カニコロッケを注文し、一番おいしいのはカニコロッケだとわかった。
伴侶の作るカニコロッケと較べて遜色なし。伴侶が使うのは底の深い調理器ではなく、ふつうの天ぷら鍋やフライパンなのだが、レストランのようにカラッと揚がる。
 
 昭和期営業を始めた西洋料理店はフランス料理と銘打っていても、誰もが知ることとして日本人の嗜好に合うよう味付けしている。「みかわや」も「フランス料理」ということだったが、腕のいい主婦が作る料理であり、そこがよかったのである。
 
 帰省したのちも東京に所用があれば時々「みかわや」へ寄った。平成になって歌舞伎座や国立劇場などで歌舞伎「昼の部」を伴侶と共にみた帰り、夕食は日本料理が多かったが、たまに「みかわや」へ行った。歌舞伎座から歩いても近いし、直接行くには時間が早いのでコーヒーブレイク後、本屋で立ち読みしたり、三越や伊勢丹をぶらぶらした。
 
 「みかわや」へ最後に行ったのはいつだったか思い出せない。都内の駅や道ばたで知り合いに遭遇したことはあったけれど、銀座とか歌舞伎座で会うことはなかった。
懐かしいのは、みかわや2階の床に響く音だ。以前から一度泊まってみたいと思って宿泊したお茶の水「山の上ホテル」の床の音にそっくりなのだ。室内を皮底の靴で歩くとコツコツ音がする。1980年代、そういう音を立てるホテルが都内にあったかどうか。
 
 みかわやも山の上ホテルも夜が更けると建物の前の人通りがばったり途切れた。部屋に床の音が響く。おおむね同時代を過ごした伴侶と共有する思い出。戦火を免れた木造校舎。小学校の教室。懐かしい響き。静かな夜。
 

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