2019年2月6日    六盛 手桶弁当
 
 「思い出レストラン」の名で連載を始めようと思いついたのは14年ほど前、「あと千回の晩飯」というエッセイを読んでしばらくのことだった。著者・山田風太郎(1922−2001)の「晩飯」は主として自宅で食べる晩飯で、千回は説明するまでもなく、あと千回も食べればあの世から迎えがくるだろうということである。
 
 残り千回はムリかもしれないという実感がひしひしとわいてくる昨今、いまさら新たな食を探す体力もなく、結局、昔の食体験を綴るしかないというおなじみの手法で「思い出レストラン」の連載を始めることにした。半年つづけば御の字、まだ生き永らえているというわけだ。
 
 京都市左京区岡崎の「六盛」は聖護院の南にあり、初めて行ったのは在学中の昭和45年(1970)春、かつて古美研・建築班に在籍していた一年先輩の女性から連絡があり、彼女の友人女性と共に京都の古寺を巡ったときだ。
芦屋平田町に実家があったその先輩は渋谷区笹塚に妹さんと住んでおり、来ませんかということで訪ねた。妹さんは私より一歳下で都立大学に通っていて、身長157センチの姉より10センチほど高かった。NHK〜フジテレビの局アナ頼近美津子似で、姉とは異なるタイプ。姉はあたたかみを感じた。
 
 当時、六盛のランチは「手桶弁当」が有名で、料金(600円)も手頃、手桶という名のとおりそれらしき器に彩りよく配列された惣菜は、新鮮かつ選び抜かれた食材が使われていた。翌年650円になったけれど味は変わりなく、少しずつクチコミで広がっていたのだろう、平日の昼時は混雑するようになった。
そこまではよかった。2年後ひさしぶりに行ったらば、料金は1300円となっており、食材選びも味付けも雑になっていた。安手の仕出し弁当の味なのだ。それから足が遠のいた。手桶弁当がおいしかったころの思い出は、先輩女性の色鮮やかな面影として残っている。
 
 時を経て料理人が代われば味も変わる。食材を落とすことに抵抗があって辞める料理人もいる。食材以外にも経営方針に賛同できず辞める料理人もいる。さすらいの料理人はいずれ自前の店を開くだろう。あるいは、ほかの料理店からオファーの声がかかるだろう。腕のいい料理人はよほどのことでもないかぎり、どこかで生きてゆく。気骨ある者は気骨ある者と気脈を通じ合わせる。
 
 上記の先輩女性とは早稲田界隈のコーヒー専門店で数回コーヒーブレイクを共にした。カウンターの向こうに70代のマスターがひとり経営するスタンド6脚のみの店で、布(ネル)のドリップを使ってコーヒーを淹れていた。客は知らない顔の学生や大学教授など。彼女が卒業後、付近を探したが見つからなかった。店じまいしたのかどうか確かめることもせず、早稲田近辺でコーヒーを飲むこともなくなった。
 
 芦屋の自宅へも遊びに行ったが、彼女と最後に会ったのがいつか、記憶の断片をたぐり寄せても思い出せない。記憶が散逸して収拾不能なのだ。六盛でも喫茶店でも勘定は彼女が払った。私に払わせてくれなかった。会うときも不意にあらわれ、再会の予感を感じさせないのにまた会うという感じなのだ。目の前からいなくなっても消えることはなく、近くにいるような存在。
 
 彼女はそれから6年ほど後、私が自宅で「シルクロードの会」を月一回開いていたのを某新聞社の記事で知り、連絡してきた。結婚して関西に住んでいると彼女は言い、元気そうねとも言った。学生時代と変わらぬ低い、よくとおる声だった。それ以外の会話もしたと思うが、おぼえていない。清々しい雰囲気と艶然たる容姿。濡れた唇。誰かに吸われたように膨らんだ上唇、潤んだ目に性的魅力を感じた。
 
 おいしいものを食べれば心が豊かになるなどと陳腐なことは言わない。食べることによって共通の思い出がつくられ、おいしかったねと口に出しても出さなくても、時間がたてばおいしさの中身は忘れ、しかし一緒にいた人の記憶だけが残る。
感動は長続きしない。よろこびを増幅させるのは食ではない、食を共にした相手であり、相手を選ぶことは食を選ぶことより価値がある。食を共にした相手によって感動がよみがえることもあるのだ。
 
 未来を追って得られるのは実体の稀薄な現在である。過去が変えられないのとは対照的に、未来は追えば追うほど、不確定で不安定な現在に追わているという強迫観念にとらわれる。永遠は過去の積み重ねによってもたらされる。自らが何者であったのかに気づき、過去と共に現在の自分自身が姿をあらわす。そういうとき未来が見える。
 
 生かされてきた、もしくは生かされていると実感できる相手と食事する、あるいは、そういう感慨にふけることが食事の楽しみ方であるだろう。全国に散らばる有名無名のレストラン、料理屋での食の経験よりむしろ自宅の食事に満足するのは、生かされてきたと実感できるからかもしれない。
 

前のページ 目次 次のページ