2019年3月10日    ロワイヤル・エクレール
 
 1989年7月初旬、関西国際空港がオープンしていなかったころ、伊丹にある大阪空港が関西で唯一国際線を運航していた。そのころは毎月のように香港へ往き来し、航空券(フライトクーポン)も香港発券だった。セントラル地区のザ・ランドマーク(高層ビル)に日航香港支店があった。
「Hong Kong=Oaka=Tokyo=Osaka=Hong Kong」のオープン・チケット(Fクラス 日本国内はスーパーシート)が日本円にして8万5千円で購入できた。
 
 香港起点の大阪途中降機。後日、大阪空港からエールフランスのパリ便(直行)に乗り、シャルルドゴール経由でニース(コートダジュール空港)へ(その後の便は省略)。空港のAVISで車をレンタルしアンティーブに向かう。アンティーブはニースとカンヌの中間の岬である。
岬という名の「ドゥ・カップ」に3泊した。ドゥ・カップは岬の突端に位置し、眼前に地中海の広がる抜群のロケーション。庭は広大で、丘陵の斜面を利用して種類別の花畑もある。宿泊客のほとんどはいかにもという感じの富豪。1ヶ月程度の長期滞在者が多く、朝は敷地内テニスコート、夕刻は舟遊び。
 
 到着した日、散策はほどほどにしてホテルのレストラン「エデン・ロック」で夕食をとった。値段は一流、味は三流。アラカルトの魚介スープは色をつけた海水に具を入れて温めたのかと疑い、食べられると思えたのは給仕お勧めの「生ハムとメロン」のメロン。生ハムには塩が回っており、しかたなく好物でないメロンを食べた。
メイン料理を食べている途中押さえきれない睡魔におそわれ、食事そっちのけで部屋にもどった。パジャマに着替えたのかどうかもおぼえていない。
 
 2日目以降は外で食事することにした。アンティーブで買ったガイドブックに目を通し、ドゥ・カップの初老のコンシェルジュにどこがいいか尋ねた。若いコンシェルジュは塩のきいた味付けでも気にしないから尋ねてもムダ。初老の彼が指さしたのは「ロワイヤル・エクレール」である。
 
 そこは20名も入ればいっぱいになるのではと思える小さなレストランで、フランス流にジャンル分けすればレストランというより「ブラセリー」である。注文した料理の数が多すぎると70歳前後の給仕長は言った。長身(190センチくらい)で肩幅の広い給仕長は白のジャケットに紺色の蝶ネクタイをしていた。左足をひきずっていたのを思い出す。
 
 最初にオーダーした一皿は、ハウスワインをグラスで数杯飲んでちょうどよい量だ。この量なら料理2品で十分。給仕長が多すぎると言ったのはそういうことである。彼はときおりパンをつぎたし、そのつどフォアグラのパテを添えてくれた。「ためしてみなさい」と貝のマリネやスモークビーフを皿に置き、口に合うかどうか確かめるように私たちを見た。
 
 おいしいフォアグラのパテを塗ってバゲットを食べると、ワインのほかに何も要らないような気がした。絶品だった。この老人はどういう人だろうと想像する。片足はもしかしたら戦傷かもしれない。56年ほど前、ナチスドイツと戦った南仏のレジスタンスの一員だったのかもしれない。
 
 料理もよかったが、あたたかい雰囲気に満ち足りた気分になった。明晩もここで食べたいと思って予約しようとしたら、「遠くから旅に出て、続けて同じ場所で食べるのはどうでしょう?」と彼は言った。その後の会話がどうなったか、次の日の夕食をどこで食べたか、それはもう申し上げるまでもありません。
 
 
           下の画像はアンティーブのナポレオン博物館です


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