2019年3月9日    かね久 美幌
 
 昭和50年代半ばから60年代初めにかけて(1979〜1988)にかけて、札幌と紋別を頻繁に往き来した。各々の滞在期間は短いことも長いこともあったが、紋別にはおおむね1週間ほど滞在した。
 
 滞在中の宿泊先は所属していた団体の紋別支部別館、食事は本館の食堂だった。紋別港から水揚げされて間もない魚介類が地元の人たちが配送し、料理自慢の女性が手伝いにきてくれていたので不自由しなかった。食堂で食べる夕食には懇意にしていた年配市会議員、支部の幹部、商店会の奥方なども加わってにぎやかだった。
 
 私たち内地から来た者は聞き役に回り、地元の人たちが話し役。饒舌な人が多く、いったんしゃべり出すと止まらない。一方がしゃべっていると他方もしゃべり、4〜5人が不等辺多角形の対角線状態になって大きな声でしゃべるようすを思い出す。
しかし、そういう人たちも館内外の別なく仕事中は北海道の森のように静かだった。心得ているのだ。
 
 みな陽気だったし、話の内容も話し方もおもしろかった。広大な庭の専任花壇担当者や野菜担当者もいて、野菜は季節によってトマト・キウリ(温室)などの専任と、カボチャ専任に分かれており、ビニールハウスのイチゴ専任という人もいた。敷地内で収穫されたカボチャの味に勝るものを私は知らない。
 
 夕飯時、野菜組は「ハナが食べられるか」と花組に言うと、「ヤサイが心をいやすか」と花組は言い返す。口からでまかせ、ふざけあっているのである。総じて野菜組のほうが料理の腕は上だった。ホッケのすり身のハンバーグは特においしかった。
 
 話題の豊富な市会議員は、「いやぁ、戦後まもないころまで、(カニ漁の)毛ガニが網にかかっても投げていた(捨てるの意)。毛ガニなんかロスケガニ(ロシアのカニ)ってみんなバカにして、食べる者はいないっぺ」と言っていた。
毛ガニは名前のとおり子型で毛むくじゃら、身が少なく食べにくい。卸市場の知人の差し入れでテーブルに並ぶこともあったけれど、食べる人は少なかった。
 
 市会議員はクチのわるいこともあるが、愛嬌があり、すがたかたちがコアラに似ていたせいか、内地から紋別を訪れる人々の人気は高かった。本人もサービス精神旺盛で、たらふくビールを飲みながら満面の笑みを浮かべてさまざまな話題を披露した。
 
 家具店経営者は本館ロビーのカーペットを実費(カーペット代)だけで貼り替えてくれた。2日の作業はテキパキして見事。大きいカーペットをはがす速さと、巻くときの手際のよさに舌を巻いた。顔におおらか、温厚と書いてあった。
彼がコーヒーブレイク時、「238号線の小向でネズミとりにつかまり、帰りも同じ場所の反対車線でつかまったわさ。顔見知りの巡査にまたかと言われ、ペダルが自分用の角度に傾いてるんだと言った」と話す。
 
 商店街の家具店、電気工事店、布団店などの経営者と北海道電力を定年退職した人、市会議員、みな善良で厚意に満ち、奥方もいい人ばかりだった。外は吹雪で寒くても中は温かかった、しあわせというのはそういうことかと思えた。
 
 上記の人と共に行ったのが美幌駅近くのそば屋「かね久」(かねきゅう)である。少ないときは10名、多いときは16名くらいが車4〜5台に分乗し、紋別から約100キロ南のそば屋へ「わんこそば」を食べにいく。「かね久」2階の座敷(10畳)を使った。
 
 わんこそばはというと、特段申し述べることもないふつうの味。紋別の住民も「わんこそば」を目当てにしているわけではない、道中と座敷のにぎわいが主目的なのである。椀の数は8個くらいだったと思う。それぞれのそばの上のイクラとナメタケ、山イモは思い出せるが、ほかの椀の具は思い出せない。
 
 美幌(びほろ)までの道中は楽しく、車内でも常に笑い声があがった。彼らが黙ると車窓の景色は変わっていた。四季折々のサロマ湖、能取湖、網走湖は何度みても飽きることがなかった。常呂町の民家民家の間に見えるオホーツク海はひときわ美しかった。間といっても都会の家々のように2メートルではない、優に20メートル以上あった。
 
 かね久へ行く場合、天気がよければ約28キロ北東にある美幌峠にのぼって、眼下にひろがる屈斜路湖をながめることもあった。内地から初めて道東に来た人を案内すると絶景に歓声をあげた。屈斜路湖と摩周湖の湖面の色のちがいはカナダのレイク・ルイーズとマリーン・レイクのちがいで、不思議な水色と神秘的な紺色だ。優劣はつけられない。
 
 道東オホーツク海に面する町と、内陸部に入った小さな町、道中に点在するすばらしい風景。そして陽気で明るく、苦労話をおもしろおかしく話す楽しい人たち。そういう人々の年齢を私が上回った現在、ほとんどの人は亡くなられ、生きている人はわずかである。厚意がどれほど他者をいやし、安寧をもたらしてくれるか。感動はかならずよみがえるのだ。
 
 わんこそばは土産話にならず、紋別の個性豊かな人々の語ったことは何よりの土産になった。両手いっぱい土産話をかかえて帰宅し伴侶に話した。1980年代半ばから伴侶も紋別へ同行する回数が増え、土産を持って帰らなくてもよくなった。わが家にはいまも盛りだくさんの紋別土産があふれている。
 

前のページ 目次 次のページ