阪急百貨店梅田本店の大食堂は戦前から戦後にかけて百貨店の改修増築のすえ、昭和30年代前半に7−8階に定まった。私の知っているのは昭和30年代の大食堂。入口右の食券売場で食券を買い、テーブルに座ると女性給仕が食券の半分を片手でちぎり、料理を運んでくるとテーブルの上に置かれた半券を持ってゆく。
1927年(昭和2年)3月7日18時27分、北丹後地震(M7.0)により阪急百貨店大食堂で食い逃げ(約300人)が発生し、3年後の1930年に日本で初めて食券制度がはじまる。大食堂は2002年に閉店した。昭和期の大阪と周辺都市で育った者にとってお子様ランチとカレーライスといえば阪急百貨店大食堂を思い出す人は多いだろう。
日曜の正午前後、両親に連れられて大食堂へ行ったのは小学校低学年のころまで、その後はほぼ単独行動となり、たまに同級生と一緒に行きつけのお好み焼店で昼食をとる機会が増えた。高校へ通うようになった外食はばったり途絶えたのだが、日曜の外出時にどこで何を食べていたのか思い出せない。
大学時代(1970年前後)、帰省したおりの外食と1975年帰郷後、梅田方面へ出たときの昼食は味もまずまず、待たずにすむレストランを探した。食いだおれの大阪といっても当時の梅田近辺にレストランは少なく、平日の12時前後から13時半ごろまではどこも混みあっている。
阪急百貨店本店には大食堂以外にもレストランがあり、なかでも2階北西角の「風車」(1959年開店)というレストランは平日の昼食時、急ぎの客が多く回転も早い。13時半を過ぎると楽に席を確保できるし、注文料理も待たされない。しかも安価で味がいい。梅田で用を足し、おそめのランチは風車の洋食だった。カレーライスもコクがあり、サイコロ型の牛肉も多く入って、うまかった。カレー専門店のない時代である。
給仕係の動作は回転の早いレストランに合わせてムダな動きがなく、きびきびしていた。それでいて物腰はやわらかく感じられた。プロ意識が高かったのだろう。スタッフの出来は味に比例しているように思えた。
テーブルにいる人は、価格に較べて味が勝るという一皿に満足気だった。料理が運ばれるといい匂いがした。ときおりテーブルが笑い、風車の天井も笑っているような気分になった。
夕方、梅田から地下鉄に乗って北浜や堺筋本町などで人と会う場合、中途半端な時間になることがある。そういうとき風車で夕食をすませることもあった。夜の風車は日中の喧噪がウソのようにガラ空きで、茫漠たるゴーストレストランの様相を呈していた。レストランに入ってさみしい気持ちになり、人生を想ったのは風車だけである。
いつだったか、風車から足が遠のいた数年後、風車は閉店した。鳥取の従兄と共にに風車でカレーライスを食べられなくなって落胆したが、付近のビジネスホテル(阪急系)のレストランのカレーは、値段は倍近かったが風車の伝統を受け継ぎ、さらにコクがあったので安心した。
カレーはそれでよかった。しかしそのほかの洋食の種類は少ないし、値段も庶民的ではなく、利用したいと思わなかった。味は一流、値段は三流でなければ意味がない。
思い出すのは、日中の風車のにぎわいと給仕係の躍動感、そして夜の風車のがらんとしたわびしさだ。風車は人間の生きざまに似て、きらびやかでさみしく生き、ひっそり引退した。
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