Oct. 10,2015 Sat    そして英国(1)
 
 まさか英国の風景がこれほど感動を呼ぶとは1999年初夏まで露ほども思わなかった。
だだっ広いソールズベリー平原のほんの一部にすぎないストーンヘンジ、緑と灰色の衣をまとったこの一帯は、誰が言ったか知らないが、数頭のグレイハウンドがしなやかに身をのばし走り去るすがたにたとえている。
ストーンヘンジには歴史ロマンよりむしろ、神々が草原に広げたテーブルについているような、あるいは食卓をともにした人たちが昔からの知り合いであるかのような何かを感じる。
 
 カーディフから東に向けて車を走らせる。A338のビーコンヒルでA303に入り、しばらくして進行方向左下に忽然と現れたストーンヘンジ。その場所、その角度でしか見られない風景は、間近で見るよりはるかに躍動感に満ちている。
間近だと単なる遺跡にしか見えないストーンヘンジは数キロの空間を隔て、はるか彼方のモヘンジョダロの鼓動を呼びさまし、魂がまぎれもなく遺跡とつながり、往き来していることを想起させるのだ。
 
 ガイドブックに書かれていない場所にどれほどすばらしい風景が多いかを知ったのも英国である。心を奪われ、みとれてしまう風景に世界遺産指定は要らない。むしろそのほうが観光客に知られず、風景の存在を知ったとしても世界遺産ではないという理由で彼らは訪れず、ひとりじめできる。
ユネスコ世界遺産では事務局長の考えが世界遺産指定に反映されやすく、指定審査をおこなう国際諮問委員会メンバーに対しても影響力を及ぼす。裏でドブネズミのような中国がニンジンをぶら下げる。世界遺産は一部の人間の恣意によって決められることもある。えっ、こんなところが?と思わざるをえない場所も世界遺産に指定されるのだ。
 
 秋でもないのに茶褐色のヘザーが生い茂るヨークシャームーアの風音に耳をそばだてる。ヘザーの群生にまぎれこんだ風がうめき声をあげる。荒涼とはこういうものか。無に等しいがゆえに何かが満ちあふれている。よしんばそれが寂寞であったとしても、寂寞のなんと物憂げで豊かなことか。
日中、太陽はムーアすれすれの高さまでしか上らず、そのままの位置でぐるりと移動するだけだ。数時間後もどって来ても、太陽は同じ低さにとどまっている。そのような自然環境で綴られた「嵐が丘」とヒースクリフ、エミリー・ブロンテ。主人公と作者は別々の人ではない、ムーアに生きた同じ魂なのだ。
 
 ヨークに投宿した翌日コンシェルジュに行くべきところを尋ねたら、間髪いれず返ってきたのがヨークシャームーアだった。それはもう答えるのがもどかしいという感じの応対なのだ。ロビンフッズ・ベイはと尋ねるとただひとこともちろんと言った。ロビンフッズ・ベイは北海に面している。北海からの風は6月半ばだというのに頭の芯がキュッと痛くなる真冬の風だった。
 
 何を知りたいか、何を求めているか私の目が語っていたのだろう。彼女の言いたいこともわかった。時空の隅っこで感性が一致点をみいだしたことを、求めるものが同じであることを。もどかしさの理由はそこにある。
 
 イングランドを旅したら大聖堂に行くべきだ。堂内の見学は二の次にして少年聖歌隊の聖歌、賛美歌を聴く。どこでもいいというわけではない、特にヨークミンスターとダラム大聖堂で聴いた聖歌の妙なる美しさは天上の音楽もかくありなんと思えるほどで、感きわまってその場に立ちつくした。はちきれそうな胸からあふれた水が一滴のしずくとなってこぼれ落ちた。
 
 回廊を歩く修道士に出会ったならさらに忘られぬ旅となる。修道士の歩くすがたと質素な装束は中世そのものである。
ほかの説明より回廊の修道士を見ることが中世を知るのに役立つだろう。できれば修道士に問う、なぜその道を選んだのか。友でも答えぬ問いに答えてくれるだろう。それが生の歴史を知るということである。
 
 水の色は屈斜路湖やザルツカンマーグートなどの湖のほうが美しいと思えるのになぜか惹かれる湖水地方。
ビアトリクス・ポッター、ワーズワース、ラスキンほかの作家詩人の存在、ナショナルトラスト、誰でも軽装で行けるハイキングコースとフットパス、低い山と家並みの絶妙のコンビネーション、観光業に携わっていなくても親切できさくな町の人々。そんなことどもが、一日に四季があるといわれるほど変わりやすい天候にもかかわらず旅行者を魅了するのかもしれない。
           
  初めてヨーロッパを旅した1969年夏、まず感じたのは空気の色がちがうということだった。前年、東京の大学に入学し、渋谷の南平台に下宿した学生は、通学途中の新宿や新大久保の空気の汚さに愕然とした。水道水は口に入る許容範囲を逸脱していた。
そういう生活を1年余りおくった後のヨーロッパ都市部郊外の町の空気は澄みきっていた。空気の色は無色透明として、すべからく空気は、とりわけ乾いた空気は町の色を決定づける。ヨーロッパで写真撮影した人なら誰にでもわかることだ、風景の色が美しく冴えていることに。          
 
 湖水地方のなかでもグラスミアの6月はみるものすべてやわらかい。特に夕刻の光に映しだされる町の色は、その時間以外には望みえない色の調べで、外壁の組石は薄桃色がかった藤色なのだ。朝な夕な散策する。歩き疲れてお茶にする。散策とティーブレイクは旅人の愉悦となる。
 
 B&B2日目の午前10時すぎ、登山口まで車を走らせ低い山に登る。同好の士に子どもがまじって歩く。空から降りてきた闖入者がハイカーの清々しさを奪ってゆく。登山口の好天は中腹で霧となり、まもなく細かい水滴となって落ちてくる。薄手の防水服を着た子どもたちはにっこり笑っている。笑顔に励まされ歩く。クラモック湖もアルズ湖もすばらしいけれど、湖水地方を旅する楽しみのひとつは明るい子どもたちとの出会いにある。
 
                    (未完)

前頁 目次 次頁