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庚申庵の近くの民家にこんなのがあった。
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草の戸乃 ふるき友也 梅の花 樗堂
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一茶と樗堂の交流は、一茶が樗堂を訪ねてきた寛政7年(1795)早春にはじまる。樗堂46歳、一茶23歳であった。
このとき庚申庵はなく、かれらは二畳庵で二人だけの句会を催す。「二畳庵は樗堂の養父・栗田政恒(1700−1774)が
開いた俳諧のための庵で、どこにあったか場所は不明」(「庚申庵へのいざない」より抜粋)。
一茶の郷里は信濃水内(みのち)郡柏原で、15歳になって江戸に奉公に出る。二十歳で俳諧の門口に立った一茶は
寛政4年、上方、四国、九州などを遍歴する。その途上、俳諧修行の一貫として樗堂と会ったのである。
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中庭広場
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雨に濡れた花菖蒲は格別のおもむきがある。
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樗堂と一茶は互いの人柄にひかれあったと思われる。そうでなければ一茶は20日も松山にとどまらなかったろう。
気に入れば引き留めるし、引き留められて有り難いのは友のあかしであるだろう。
樗堂のあたたかいもてなしと人柄が一茶の作風に影響をおよぼすのは自然の流れである。
「庚申庵へのいざない」(アトラス出版)によると、一茶の訪問時、樗堂は「鶯の咽にあまりて啼く日かな」を発句に詠み、
歓迎の意を表している。発句を詠むのは客人の一茶なのだが、一茶の先輩に対する敬意ということなのか。
(「咽にあまりて=精いっぱい声をはりあげて)
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庚申庵の創建は寛政12年(1800)。
旧庚申庵は1949年、愛媛県によって史跡に指定された。
2001年3月、庚申庵の解体修理がはじまり、2003年5月3日、改修工事が完成した。
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二畳間から井戸をのぞむ。
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庚申庵小冊子(パンフレット)に「芭蕉の幻住庵にならって『細き流れを引き入れ』た庭がつくられた」。
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庚申庵の座敷はすべて上がることができる。
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味酒町の名のとおり、このあたりは良質の水が出るという。造り酒屋が多かったのも良質の水が豊富に出たからだ。
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ヒメシャラ(姫沙羅)は夏ツバキの一種である。夏ツバキに較べると小ぶりであることからヒメがつく。井戸のそばに咲く。
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この日の午後、松山は小雨が降っていた。雨が庭の草木をしっとり、美しくみせていた。
廊下に射す光は陽光によるものでなく、雨天のかすかな光であり、弱いがやさしい光である。
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紅しだれもみじは春がくると赤紫に色づく。良質の水のせいか生き生きしていた。
紅しだれもみじの下の植物はハラン(葉蘭)。この葉蘭は25センチほどの長さだが、大きいものは50センチをこえる。
葉蘭は日本料理店や寿司屋で飾りに使われる。
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左に四阿、その奥に二つめの藤棚
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四畳半でぼんやりしていたら小学生と女性教諭がやってきた。
庚申庵には俳句投稿用の竹製の筒が置かれていて、だれでも投稿できる。
彼女たちも竹筒に俳句を入れていきました。
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藤は樗堂が植えたのか、以前からこの場にあったのか定かではないが、樹齢は200年を越し4月下旬が見頃。
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樗堂の書き記した「庚申庵記」の「結」には次の一句がある。(「庚申庵へのいざない」)
よしもなき 名はただ曇れ 秋の月 樗堂
つまらぬ私の名などかすんで消えてしまえばよい。それにしても今宵の中秋の名月は、
なんと清らかに人の世を照らしていることであろう。
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