Feb. 23,2015 Mon    三津五郎の死
 
 最後の舞踊名人が死んだ。富十郎が亡くなって三津五郎の踊りには並ぶ者がいなかった。京鹿子娘道成寺は初代中村富十郎が踊り、二代目瀬川菊之丞、五代目岩井半四郎など女形の舞踊の名人が継承してきたけれど、十代目坂東三津五郎は女形ではなく立役である。しかし娘道成寺は親類の真女形坂東玉三郎よりうまかった。
 
 長唄の大曲・娘道成寺は節回しがすぐれているだけでなく、「鐘に恨みは数々ござる」、「初夜の鐘を撞くときは諸行無常と響くなり 後夜の鐘を撞くときは是生滅法と響くなり」、「言わず語らず我が心」、「恋の手習いつい見習いて 誰に見しょうとて紅鉄漿(べにかね)つきょうぞ みんな主への心中立て」など詞でも聞かせる。
 
 娘道成寺は恋する女の不安と喜びが交錯する踊りであり、能「道成寺」の乱拍子のようなせっぱづまった女の執着、緊張感とは異なり、源平の白拍子とも違い、若い女が体験する乱行にも似た恋を糸引きによって着替えながら軽やかに艶やかに舞う舞子の踊りであり、みればだれにでも理解できる。だが、そうであるだけに踊りのうまいへたがわかりやすい。舞踊をみるのは好きだが踊るのは苦手という人にも上手下手の見分けがつく。
 
 三津五郎の得意とした清元「流星」を道頓堀・中座でみたとき、舞台の床几に座って食い入るようにみていた橋之助の顔に「これは努力して会得できるものではない、天性だ」と書いてあった。かつて夜這い星という俗称のあった流星は踊り手の軽妙と色気が身上。踊りの名手ならそれくらい朝飯前だが、難しいのは足つかい。上げる足と下ろす足が同じ寸法でないと雲の上にいる感じがでないのだ。
 
 たかが足と思うかもしれないけれど、板の上でトコトントントンと踏むときにも役によって踏み方のちがいがある。品よく踏むにはトコトンもトントンと踏むし、最後の音だけを強く踏むのである。踏むのはかかとで踏む。つま先で踏むのは大衆演劇の踊りである。
 
 2001年4月大阪松竹座の十代目坂東三津五郎襲名披露のおり、三津五郎は「六歌仙」を通しで踊った。1月、2月の歌舞伎座襲名披露でさえ踊らなかった六歌仙の通しを見逃した舞踊好きはさぞ心残りだろう。
過去、通しで踊ったのは、二代目中村芝翫(後に四代目中村歌右衛門)と四代目芝翫だけではなかったろうか。二代目芝翫は江戸末、四代目芝翫は幕末〜明治初期の人である。清元は三津五郎と同い年で故中村勘三郎のいとこ延寿太夫だった。あのとき延寿太夫は年齢より老けてみえた。白髪がふえたという理由のほかに体調に問題があったのだろう。延寿太夫より先に勘三郎が逝き、三津五郎まで逝くとは。
 
 六歌仙の業平では三津五郎の扇が目にうかぶ。扇一本が花に、鳥に、そして風になる。春爛漫を扇で見事にあらわしていた。小野小町をやっていた菊之助の踊りは腰高で洋舞もどき。
三津五郎が真価を発揮したのは喜撰である。坊主は立役と女形の中間で踊る。いうは易し、おこなうは難しとしても、絶妙の足さばき、魅いってしまいそうな目の動き、色気とおかしみは客席のどよめきと笑いをさそって無類のうまさ。三津五郎の踊りは1階最前列真ん中でみてきた。公演中二度みにいったこともある。
 
 松竹座襲名披露口上で菊五郎がいう、「三津五郎さんは結婚したばかりなのに逃げられて」。うつむいている三津五郎の口が三日月になる。笑っているのだ。客席はむろん笑いのウズ。菊五郎は三津五郎を弟のようにかわいがっており、その当時、三津五郎は菊五郎劇団の別格客分待遇で、なくてはならない役者だった。
 
 夫婦はある意味舞踊である。うまく踊れても踊れなくても、足さばき手さばきがヘタでも踊りつづけなければならない。途中でやめるわけにはいかないのだ。
人気の高い歌舞伎役者は有名野球選手どうよう不倫の機会も多い。女性が寄ってくるのである。ほとんどはうまく立ち回ってゆくが、三津五郎は生来のきまじめさゆえうまく立ち回れなかったのだ。三津五郎の場合、ほかの役者とちがって小姑の問題もあった。
 
 女の嫉妬は経験から学んだのだろう。しかし学ぶことと生かすことは別である。1992年7月南座の「身替座禅」は当時の片岡孝夫(現15世片岡仁左衛門)と三津五郎(当時は坂東八十助)。山蔭右京を孝夫、奥方玉の井を八十助。
玉の井はだいたい立役がやる。が、ウケ狙いのためか左団次、弥十郎など大柄でむくつけき役者がやるから、歌舞伎初心者は喜んでも歌舞伎にならない。
 
 身替座禅は狂言「花子」からきたもので、山蔭右京のモデルは後水尾天皇、玉の井は中宮東福門院(徳川和子)という。玉の井の悋気にしても露骨にあらわすだけでなく気品が要る。三津五郎はそこがうまい。嫉妬と品のよさが両立する芸をみせるのである。だからいちだんとおもしろい。
 
 思い返せば次から次と踊る場面がうかんでくるけれど、鏡獅子だけは勘三郎のほうがよかった。前シテの弥生は互角として、後シテの獅子の精は勘三郎の豪壮がまさっていた。三津五郎を踊りの名人、天才と認めつつ、これだけは負けたくないという勘三郎の意地。
そういうふたりは多くの舞台をともにした。ぴったり息の合った「棒しばり」。抱腹絶倒の「らくだ」、「狐狸狐狸ばなし」。江戸の初夏が舞台いっぱいに広がる「髪結新三」。なにわの夏のにおいが立ちのぼる「夏祭浪花鑑」。常磐津・一巴太夫の声が冴えわたった「三人形」。納涼歌舞伎「権三と助十」。
 
 歌舞伎公演情報をキャッチし、三津五郎が踊るとわかるとわくわくした。元気なときに三津五郎の踊りをみることができてよかった。三津五郎の死で踊りの一時代は終わった。
六代目(17世中村勘三郎の岳父・尾上菊五郎)は三津五郎の曾祖父・七代目坂東三津五郎(踊りの神さまといわれた)に追いつこうと修練に修練をかさね、「鏡獅子」を家の芸にした。それを17世・18世勘三郎が引き継いだ。踊りへの思い入れについて六代目はこういうことばを残している。踊り踊りてあの世まで。
 
 十代目を襲名して徐々に三津五郎の芸は大きくなっていった。時代物、世話物を問わず芸容がくっきりと確かなものになり、せりふの一つ々々が客の心を打ち、納得させた。特にここ数年、舞台に立つ三津五郎の顔は錦絵から抜け出したかのように立派で色彩豊かなものになった。もう三津五郎の踊り、芸をみることができない、そう思うと語ることばが出てこない。本日はこれぎり。

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