Nov. 28,2014 Fri    魂の残る場所
 
 多くの死に接していると死は悲しみでも驚きでもなくなる。ある年齢を境に死と生の境目が朝靄のごとく朦朧となってくる。自分の死を実感したことはあっても実際の死ではない。死はほんとうは実感とかけはなれて稀薄で曖昧なものではないだろうか。子どものころ、同居していた祖父母の死は身近なものだった。同居もせず、たまにしか会わなければ身近に感じることもなかったろう。
 
 死者の思惑は想像できないけれど、憎んでいた人間を許せないと思って死んでも、死んでしまえばそれまで、自らは灰燼と化し、生き残った者を憎んだこと自体煙のように消えてゆく。成仏できるかどうか誰にもわからない。いや、だいたい成仏を望むかどうか知りようもなく、あの世や成仏があるかどうかも疑わしく、生き残った者は許される許されないにかかわらず生きてゆく。生きるとはそうしたものだ。死者の思いどおりになるとしたら四谷怪談である。
 
 私の母は60代になって、この世でおきたことはこの世で解決すると言った。それはつまり生きているうちに解決すべくベストを尽くせということで、企業間の問題ならほとんどカネで片がつくし、人間関係のトラブルにしてもおおかたカネでケリがつくだろうが、こみいった愛憎や恩讐についてはカネの埒外にあるので解決は至難。
しかしそれでも、解決に向けて心血をそそぐから、その間だけ健康でいさせてくださいと神仏に祈れば、天は人知の及ばざる力を授けてくださり解決の糸口が見つかるという意味なのだ。
 
 問題解決のヒントは過去にあるが隠れている。ヒントは過去という名の波のまにまに浮かぶボートのようなものだ。発見するのはたやすくないが、乗ってしまえばどこかに上陸し、道なりに歩けばいい。歩いてきたのは苦痛の石がばらまかれた苦難の道だ。甘美な思い出だけが記憶されていればどれほど楽しかろう。憎しみは人間の心も顔もゆがめる。
 
 1994年に公開された英国映画「フォー・ウェディング」(原題は「Four Weddings and a Funeral 」)にかけがえのない人の死を悼んで英国俳優ジョン・ハナーが弔辞を述べるシーンがある。かけがえのない人間の死だけは喪失感も悲しみも痛烈である。弔辞はW・H・オーデン(1907−1973)の詩。それを列挙する。
 
 【時計を止めろ 電話を切れ 骨を与え 犬を黙らせろ ピアノもドラムも鳴らすな ひつぎを出して哀悼の意を示せ 飛行機を旋回させメッセージを書かせろ 「やつは死んだ」 ハトの白い首に喪章をつけろ 交通警官に黒い手袋をはめさせろ 
やつは俺の北であり 南で東で西だった 俺の労働日であり休息日だった 俺の昼 俺の夜 俺の話 俺の歌だった それが永遠に続くと勘違いしてた もう星はいらない 片づけてくれ 月も太陽もお払い箱だ 海も森も消してくれ もう何もいいことはない】
 
 憎しみは愛を凌駕することがあるかもしれない。しかし憎しみは人間を救済しない。やっかいなのは、救済されなくても許されなくても結構と思う人が存在することである。そういう人の多くは憎悪による煩悶が運命であるかのように生きる。そういう魂は引き継がれ、生まれ変わっても憎しみは消えることなく、ふたたび同じ道をあゆむのかもしれない。魂が存在するとしたら魂とはそうしたものだろう。
 
 愛が継続し消滅しなければ、生まれ変わっても同じ人に魅了されるだろう。容姿はすこしちがうかもしれない、が、その人を形づくっている同じ魂に惹かれるだろう。それは共に暮らしてる人であり、あるいは夢にでてくるその人なのだ。愛したこと、そして愛されたことによって、おそらく現在も愛し愛されていることによって魂は救われる。魂の残る場所はそこしかない。

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