Oct. 26,2014 Sun    リスボンに誘われて(2)

 
 スペインではなくなぜポルトガルなのかという問いはいわば愚問というもので、作者の好み、もしくはたまたま旅したのがポルトガルかもしれず、あるいは、スペインの光と影よりポルトガルの陰影のほうがまさっていたのかもしれない。小生は20代にスペインへ二度、ポルトガルに一度、30代後半にスペインを再訪し、40代後半にポルトガルを再訪した。
そのわずかな経験で両国を比較するのも乱暴な話だが、おおざっぱにいうと20代なら両国とも魅力的で、わずかにスペインのほうに魅了された記憶はあるけれど、40代に旅したポルトガルはすばらしかった。
 
 心の風景となったヨーロッパの首都はリスボン、プラハ、エディンバラだけである。ローマやパリ、ウィーンの表通りは観光客でごったがえしていて猥雑。特に50歳をすぎると猥雑なものを忌避したい気持ちが以前にも増して強くなった。スペインの都市部は猥雑ではないが、住民が元気を装いすぎてしっとり感に欠ける。
リスボンについては「ヨーロッパ町」に「リスボン追想」として書き記した。虚飾を感じないステキな町だが、写真も文章も10数年前のもので色あせてしまった。リスボンを舞台にしたドラマ、映画は日本に来ないし、ここ15年、日本のテレビで放送される旅番組は心を動かさないし、そのまま21世紀は11年経過した。
 
 このまま終わるのかとあきらめかけていた2012年11月「ミステリーズ 運命のリスボン」(ポルトガル・フランス合作)が上映された。
ところが、思わせぶりなのはタイトルだけで、俳優の仕どころも、これはと思うシーンもなく中身はほとんど空っぽ、だらだらして平坦な演出、メリもなければハリもなく、30分経過して席を立とうとも思ったが、各種割引なしの特別料金はシニア割引の4倍(前編+後編)、立つに立てず、上映時間4時間27分に耐え、間のびした駄作を見終え劇場を出たらすっかり疲れてしまった。
 
 それから2年、9月13日に「リスボンに誘われて」が封切られた。若いころに較べると映画監督よりキャスティングを重視するので、主役が名優ジェレミー・アイアンズ、名脇役トム・コートネイ、クリストファ−・リーなどの英国俳優陣に加えてドイツの女優マルティナ・ゲデックという配役も気にいった。リスボンと名のついた映画でも「リスボンに誘われて」はほんものの予感もあった。「ミステリーズ 運命のリスボン」でがっかりしたぶんも取りもどしてくれるだろう。
 
 「リスボンに誘われて」は原作「リスボンへの夜行列車」の欠点である長ったらしくムダの多い文章を簡潔的確に切り取り、原作を練り直し、仕立てがよく流麗な着心地の洋服につくりあげた。腕のわるい職人がかかわると、ともすれば原作を細かく切り刻んだあげく大雑把に縫いあげ、みるも無残なしろものをこしらえてしまう。
原作にまさる映画はないと言う人もいるけれど、感性ゆたかなスタッフ、名匠と名優、ロケーションなどがそろえば原作にまさる映画をつくることは可能。40年前に読んだ文学作品の内容をほとんどおぼえていない人も同時期に劇場でみた名作を記憶している。すぐれた映像は心に残り、ときとして私たちの感性に影響をおよぼす。
 
 「十二夜」にうまい役者が出て、嵐に巻き込まれた船が転覆沈没し乗客が海中に放り出される模様を巨大なスクリーンに映したときのシェイクスピアの反応をみたい気もする。外野席の評者たちが、整合性がどうのこうの、想像力の世界は無限でと講釈をたれるのはいいとして、世界に冠たる文豪も映像の迫力に息をのむのではないだろうか。
神韻縹渺たる名文の戯曲やソネットを生みだした巨匠でも、いや、巨匠だからこそ未知の世界に時代を超えたサプライズを感得するだろう、昔のほうが役者はうまかったとか味があったと言うかどうかはともかく。
 
 上の画像はライトアップされたサン・ジョルジェ城の見える丘のベンチで主人公が本(架空)を読むシーン。 「リスボンへの夜行列車」には記憶に刻まれるかもしれない文章もあり、映画「リスボンに誘われて」の字幕となって映しだされる。
 
 「何千という体験のなかから、我々が言葉にするはせいぜいひとつだ。そしてそれさえ、単に偶然のなせる業であり、(中略)言葉にならないあらゆる体験のなかに、気づかぬうちに我々の人生に形、色、旋律を与える出来事が隠れている。」 「人は、家や木を見るように人間を見ない。人は、他者と特定の方法で関わりあいたい、そしてそれによって他者を自分の内面の一部としたいという期待を持って人間を見るからだ。」
 
 「他者を見つめること、視線を交わすことはすべて、互いにすれ違う旅人同士の、幻のように短い視線の交差と同じようなものではないか。」 「本当は、出会うのは人間同士ではなく、人間の想像が投げかける影なのではなかろうか?」
「誰かになにかを言ったからといって、それがなんらかの作用を及ぼすことなど、どうして期待できるだろう?轟々たる流れは、誰か他人が我々に語る言葉のすべてを簡単に押し流し、忘却に譲り渡してしまわないだけでも奇跡と言うしかないほど激しいものだ。」
 
 「若いころには誰もが、まるで不死であるかのように生きるものだ。我々は死すべき存在だという知識は、紙でできたかさかさのリボンのように我々に巻きつけられているが、肌にふれることはほとんどない。それが変わるのは、人生のどの時点でだろう。最後に我々を窒息させるそのリボンがきつく巻かれ始めるのは、いつなのだろう。」
 
 以上は原作本の翻訳である。しかしそれよりスクリーンに映し出される字幕の翻訳のほうがすぐれていた。いうまでもなく一冊の本が名作であるかどうかを決定づけるのは原作の秀逸さと名訳なのだ。
 
 「若い時はみな不死であるかのように生きる。死の自覚は紙のリボンのようにわれわれの周りをつかず離れず踊るだけだ。それが変わるのは人生のどの時点だろう。そのリボンがわれわれの首をしめ始めるのはいつだろう。」
 

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