Oct. 13,2014 Mon    ブロードチャーチ

 
 すぐれたドラマは最初の3分でみる者をひきつけると以前どこかで記した。人間もドラマと同じで、やる気のない者に魅力を感じることはなく、無気力な者でさえ無気力な者に惹かれることはないだろう。
その気にさせないドラマを5分以上みるのは苦痛。評にかからないドラマは筋書きを忘れる。駄作の筋書きなどあってないようなもので、忘れたことも忘れてしまうから記憶に残りようもない。
 
 2013年英国で放送された全8回のミステリードラマ「ブロードチャーチ」はミステリーの本場英国でも秀逸。シャーロック・ホームズのような、あるいはエルキュール・ポアロのような胸のすく謎解きはなく、どこにでもいそうな刑事が試行錯誤のすえに容疑者を割り出してゆく過程に妙味がある。架空の町ブロードチャーチはイングランド・ドーセット州にあるブリッドポート。
 
 町の中心から2キロほど南のウェスト・ベイという海岸(上の画像)が少年の死体遺棄現場だ。ドラマの発端部は夜の海、断崖の上と下。抜群のロケーションはみる者をひきつける。刑事二人の好演もさることながら、うまい脇役がそろうと芝居はおもしろくなる。脚本も演出も撮影もいい。
 
 新聞ほかのメディアに対する痛烈な批判。身近でそういう経験をした者として断言できる。メディアはとかく悲惨な殺人事件に狂喜する。正義の味方の仮面をかぶったメディアは死肉をあさるハイエナだ。
戦場ジャーナリストでもない記者が戦場の出来事を講釈するのか。真偽をみきわめず正邪を云々し、邪と決めつけたものを非難攻撃していいのか。仮想経験だけでモノを言うメディア人間にその資格があるのか。
 
 ミステリーな夜をブロードチャーチの登場人物とすごす。秋の夜長に適したすごしかたといえるだろう。
家族にもわからない家族の秘密。しかし家族を苦しめるのは秘密より理解のなさとか精神障害とかだ。次々と暴かれる登場人物の過去。近年、英国ミステリードラマの舞台はロンドンから地方に移る傾向が著しい。「主任警部アラン・バンクス」の舞台はノースヨークシャーのハロゲイト、「新米刑事モース」の舞台はオックスフォード。
 
 騒々しい大都市のミステリーは作りが雑で素っ気ない。ロケーションが大都会、しかも動の多すぎるミステリーはやかましいだけだ。この10数年ロンドンを舞台にした英国の刑事ドラマでおもしろかったのは「第一容疑者」だけである。ヘレン・ミレン扮する主任警部、後に警視ジェーン・テニスンは彼女の生涯の当たり役。
 
過去や秘密は容疑者の専売特許ではないく登場人物にも捜査員にもある。そのあたりを巧みに取り入れることで視聴者を取り込む。過去のない人間はいない、あたりまえのことがミステリーの大前提である。
捜査は容疑者の過去や秘密を探しあてることであり、そうすることで動機もみつかり、容疑者を追いつめていけるが、動機が見当たらない、もしくは動機のきわめて稀薄なことが現代的なのかもしれず、そうなれば難航する。
 
 疑心暗鬼の網が捜査員をとらえ、網にからまれてもがく。時間が経っても容疑者に近づくどころか五里霧中。遺族の苦悶、怒り、悲嘆、不安は捜査員の比ではない。遺族の悲嘆と怒りが捜査員を支えており、それをムリなく自然に表現できるのが英国の俳優。かれらは演技していないかのようだ。役を演じているのではなく生きているのだ。
 
 感性がゆたかでまっとうな怒りに支えられた捜査員はいつか真実の扉の前に立つ。カネや地位を失ったことはあるが、感性を失ったことは一度もない、という人間が謎解きをするミステリーはつねにおもしろい。
感性を失ったことはあるが、カネも地位も失ったことはないという人間がまったくおもしろくないのとは真逆である。ゆたかな感性に経験が加われば人間の心の闇をさぐりあてることもできる。ミステリーの醍醐味はそこにあってほかにない。
 
 ドラマの大詰、ふたりの刑事(デヴィッド・テナント&オリヴィア・コールマン)が断崖イースト・クリフを背景にベンチに坐っている。イースト・クリフはライトアップされ、ウェスト・ベイの海岸との立体的な美しさは息をのむほどだ。
このシーンだけでもドラマをみる甲斐がある。傷つき、救済をのぞめないほどの出来事と風景とが対照的であるから悲哀がつのり、遺族にも、われわれに対しても希望の有無を問いかける。

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