Sep. 18,2014 Thu    リスボンに誘われて

 
 近年、洋画の凋落、退廃ぶりはいかんともしがたく、さまざまな映画祭の受賞作品にこれはと思うものはなく、ここ10年CGを駆使してやかましい映像を流し続けた米国映画は映画館に出向くに値しないし、邦画にいたってはこの35年惨憺たるありさまで評にもかからない。これはと思う俳優のすくないことに一因があるとして、駄作の山を築くにもほどがある。
 
 最近の洋画でよかったのは、「おとなのけんか」、「ミッドナイト・イン・パリ」、「マリーゴールドホテルで会いましょう」(書き句け庫2013年3月7日に掲載)、「ふたりのアトリエ」(2013年12月20日・ジャン・ロシュフォールの挑戦)、「はじまりは5つ星ホテルから」、「あなたを抱きしめる日まで」くらいなもので、どの作品も役者がそろっていたし、ストーリー展開に妙味があって、うまく編集されていた。
 
 9月13日、9ヶ月ぶりに映画らしい映画をみた。パスカル・メルシェ著「リスボンへの夜行列車」を原作とする「リスボンに誘われて」。ことしのベスト・オブ・シネマである。冴えない高校教師役のジェレミー・アイアンズが出色。小雨ふりしきる朝のベルン、橋から川に身を投げようとする謎めいた若い女を救うところから映画ははじまる。
狂人の額のように低くたれこめた雲が朝を夜にみせかけている。すんでのところで助けられた女は自分の意志で学校までついてゆくが、教室に入って生徒の好奇の目がそそがれると教室を出て、いずこともなく去ってしまう。
 
 女が置き去りにした赤いコートを持って後を追うが、女は雲にさらわれたかのごとく消える。コートのポケットに小さな本があることに気づき、背表紙に押されたスタンプからその本がいきつけの古書店で売られたものと知り、古書店へ行く。本にはリスボン行き夜行列車の切符が挟まれていた。
謎の女に魅了されないものでもないけれど、なによりも映画に登場する一冊の本に記された文章にしびれた。「人生の一部しか生きえないとすれば、残りはどうするのだ」。そうなのだ、ほんとうに生きたと実感できる時間はわずかである。
 
 自らの内面をみつめる人間は昔のことをよくおぼえている。が、そうでない人はほとんどおぼえていない。追憶の淵をさまよい、追懐の川に流され、それでも記憶が消えることはなく、時は止まったままである。登場人物はスイスやポルトガルにいるのではない、自分自身の影である。そのかぎりにおいて映画をみた人は冒頭部から非日常の世界に入り込む。本に記された人間を追う男、そして男の行方を追う観客は一体となってスクリーンに紛れ込む。
 
 こういう言いかたもなんだが、長ったらしくてムダの多い文章からなる原作(「リスボンへの夜行列車」)をこれほど簡潔的確に切り取ってうまく仕立てあげた映画は稀少。たいがいは原作を細かく切り刻んだあげく大雑把に編集して、見るも無残なすがたをさらす。
 
 女に切符を届けようとベルン駅ホームへ行って女を待つが、女は現れない。小さな本に心を奪われた初老の男は、発車時刻が近づいても現れない女に見切りをつけ、動きだした列車に飛び乗る。そうして自分自身を探す旅がはじまった。男の心を奪ったのは本のみにあらず、旅の魔力にも魅せられるのだ。
列車のなかで男が読み進む珠玉の一文が字幕に流れ、列車に乗って読んでいるかのような気分になる。男は隣に置いた赤いコートのことを忘れている。魔法の粉は赤いコートにではなく本にふりかけられたのである。
 
 リスボンで出会う眼科医に「マーサの幸せレシピ」(2001独)で好演し、今回の映画でもしっとりしたおとなの女を演じたマルティナ・ゲデック、本の著者に「ボードウォーク・エンパイア」(WOWOW)で演技力を試される地味な役を見事に演じて注目を浴びたジャック・ヒューストン、著者の妹にシャーロット・ランプリング。男の探究心をアシストするのは英国の名優クリストファー・リーとトム・コートネイ。
 
 唯一の失敗は、本の著者と束の間愛を交わす女性(メラニー・ロラン)の30数年後の役にレナ・オリンを配したことだ。レナ・オリンの演技はいかにも演技しているというふうな演技で、顔と雰囲気はメラニー・ロランとまったく異なる。
映画をみた者はがっかりするだろう。ほかの配役はよかったのに、ここだけは惜しまれる。メラニー・ロランと似ているのはジュリエット・ビノシュなのだ。しかもビノシュの演技は演技を感じさせない。
 
 この映画では愛を交わすことは重要ではない。それは人生で愛を交わすことがたいして意味をもたないことに似ている。肉体のふれあいはどれだけ馴染みを重ねても、徐々に崩れ去るか、突然崩れ去る。日々肉欲に溺れたとしても肉欲が精神を占拠することや魂を支配することはなく、名残を惜しむだけなのだ。
 
 リスボンの夜のえもいわれぬ美しさ。ライトアップされたサン・ジョルジェ城のみえる丘のベンチで男が本を読む短いシーンをみにいくだけでも映画をみる値打ちはある。観光区から離れた坂道の中腹にある小さなホテル。夜の帳が降り、赤のメルセデスで男を送る眼科医。それにしても欧州人の色彩感覚の豊かさはたしかである。かれらが創りだす色の組み合わせ、取り入れ方をみる楽しみもある。
 
 本に出てくる人物との交流に専念している男には眼科医の存在は眼中にないか、あってもわずかだ。いや、そうではない、眼中にないかのごとく振る舞うのだ。
 
 橋から飛び降りようとした若い女にもう一度会いたいと思った。会わなければ忘れられなくなるからだ、エディンバラのピザハットで働いていた若い従業員のように。
若い女は大詰で突然現れる。たったひとこと重要なせりふを言うために。再登場のシーンは自然でムダもない。せりふは苦悩からほとばしった言葉であり、人間の生そのものである。家族を愛した過去と、その家族の経歴とのギャップをリセットできず、厭世観にとらわれた女はリスボン行きの切符を買ったにもかかわらず死を決意し橋に立つ。映画の発端部である。
 
ラストシーンはリスボン駅ホーム。男と眼科医。そのあたりの人物描写が昔の映画から一歩脱けだした癒やしを感じさせる名シーン。駅のかもしだす不思議な何か。名品は心の風景をよびさます。
もはや私たちはスクリーンを見ていない、心の映像を見ている。映画に魅せられ、そのなかに飛びこむが、心のなかに映るのは過去の風景に茫然と佇んでいる自分なのだ。「リスボンに誘われて」は数年に一度しか来ない名作である。

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