Jul. 29,2014 Tue    奥嵯峨の池

                                      大沢池のハス
 
 あれは46年前になるだろか、早稲田大学古美術研究会夏合宿に参加したのは。当時は建築班に所属していたけれど、建築だけに関心があったわけのものでもなく、仏像や庭園、石彫、絵画にも興味があったと思うし、ほかの何よりもまず生き仏に魅了された。学生時代こういうことは人に話さないもので、半世紀近くたったいま、庭をみるにも美女が視界に入ると庭が目に入らなくなると奈良の小料理屋で朋友に話したらば、言葉に出さず大きくうなづいた。
 
 当時から奥嵯峨ということばの響きが好きで、嵯峨野では望むべくもない何かを、つまりは密会とかの淫靡なものを連想させたが、東京から関西にもどってまもなく、奥嵯峨にはこんもりした山、畑と池があるくらいで、密会に適した場所はなく、どじょうが出てきてこんにちはというようなところであり、嵯峨野のほうがよほど密会にふさわしいとわかった。そうはいってもいまだに奥嵯峨を贔屓にしているのは、奥多摩が登山を、奥飛騨が演歌を、奥座敷が陳腐を連想させ、そういう「奥」を忌避したいからかもしれない。
 
 昭和50年代初めだったか、密会とはほど遠い状況の独身時代、後年家内となる女性と行ったのは季節の別なくだいたい京都で、洛中は騒々しいから洛外へ、固くて重いカメラバッグにカメラ2台、交換レンズ3〜4本、三脚をぶらさげて路線バスに乗り、バス停からは徒歩、そのあとも徒歩、そういうぐあいに何キロも歩いた。夏に行くのはきまって正伝寺。庭をみにいくのではない、背の高い木々に囲まれた涼しい参道を歩き、だれもいない縁側でぼんやりするために。
 
 晩秋の嵯峨野も人は少なかった。ある日、すこし足をのばして大沢池へ行こうということになった。案の定、大沢池は人の影もなかった。広沢池へも行った。そして思い出した。前々年、高雄パークウェイという有料道路を通って栂尾高山寺に行った復り、府道29号を走っていると、進行方向左手(北)が突然大きく開き、池があらわれた。広沢池である。
 
 洛中から広沢池周辺に通じる道は在原行平が嵯峨帝をしのんで詠んだ「さがの山 みゆき絶えにし芹川の 千代のふる道 跡はありけり」という和歌がある。歌の「さがの山」は嵯峨の地ではなく嵯峨帝をさすそうで、「千代のふる道」も具体的な古道をさすわけではないとの説もある。しかし江戸期の旅行案内書のなかに「千代の古道」は広沢池に出る道と紹介され、奥嵯峨に至るどこかの道が千代の古道と認識されていたもののようである。
 
 広沢池は大沢池とともに観月の名所として知られている。そしてまた、千代の古道と刻まれた石の道しるべが道沿いに新旧数本あることから、千代の古道の石碑は観光用ではなく、心ある人の刻印と解したほうがいい。ハスが咲いているからといって、猛暑のさなか、てくてく歩いて池を見にくる物好きも少ないだろう。付近には何もない、保冷剤とクーラーバッグ、清涼飲料は必携。
大沢池は嵯峨帝(786ー842)が洞庭湖を模して造らせ、広沢池は円融帝(959−991)の勅願により989年に造られたという。両池の南北にはころあいの低い山並が配され絶好のロケーションといえる。
 
 ハスの花を荷葉といい、荷葉の上をわたる風を荷風という。ハスは古事記にも出てくるし、かつて宮中ほかで観蓮会が催された。古代ハス研究の第一人者大賀一郎は2千年前のハスを開花させた。ハスの生命力おそるべし。「ハスは夜明けとともに咲きはじめ、一日目は半開のまま閉じ、二日目は早朝に満開となり昼に閉じる。三日目は再度満開となり一部の花弁を落としはじめ、午後には合掌して、四日目で全部の花弁を落として花托だけになる。」(釜江正巳【花の風物誌】)。
 
 避けようとした運命に出会い、避けたくなかった人と別れ、運命に逆らい、運命の人と出会い最期を迎える。その間わずか四日、そうとしか思えない早さである。二千年死んだふりして蘇生する摩訶不思議な生命力は夢のまた夢。古美術研究にうつつをぬかした記憶はないけれど、生き仏にほだされた記憶は残っている。奥嵯峨の呪文に心奪われ、出会いと別れを経験し、いまはただ心の風景を追懐するのみである。

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