Jan. 26,2006 Thu    古美研OG
 
 歌舞伎をはじめてみたのは大学一年の秋、たしか歌舞伎座十一月の顔見世・夜の部だったと記憶している。演目は忘れてしまったが、六世歌右衛門と先代幸四郎が出ていたような気がするから、もしかしたら「籠釣瓶」かもしれない。
 
 夜の部とはっきり憶えているのは、どこかの美術館の帰路、地下鉄日比谷線・銀座駅で降りて銀座線(私の下宿先は渋谷だった)に乗り換えようとしたら、秋葉原(千代田区岩本町)に住んでいたKMさんが「歌舞伎みに行かない」と突然いい、そのまま東銀座で下車すると、あたりはとっぷり暮れて、歌舞伎座のイルミネーションが妙になまめかしかったからである。
そのとき、釣瓶落としといったら、「なに、それ?」と尋ねられたような記憶もあるので、それがいつのまにか「籠釣瓶」にすり替わったということもありうる。記憶とはいいかげんなものだ。
 
 いつだったか、KMさんにそのことを訊いたらば、歌舞伎座に行ったのは憶えているが、狂言名までは思い出せないと言っていた。鴈治郎(二世)をみたかったのに、鴈治郎の狂言はすでに終了していたらしい。私たちがみたのは幕見(一幕見席。三階の最後方)。
 
 KMさんにかぎったことではなく、当時の東京生まれ、あるいは、東京近郊で生まれ育った女性のなかには、祖父母または両親などに伴われて芝居見物した人もあったようで、KMさんの同期OMさんや、藤沢に住んでいたKMさんも歌舞伎をみていたと思う。
藤沢のKMさんは、自分のことを時々「わし」と小声で可愛く言っていたので間違いないだろう。女形は舞台で「わし」とか「わしゃ」ということが多い。
 
 歌舞伎に魅せられたのはしかし、そういう女性の存在があったからではない。
十代後半の一人暮らしの男にとって、眉目麗しい女性の存在は軽視できない。が、私がおもしろいと思ったのは、黒幕、差金、捨てぜりふ、十八番といった言葉が歌舞伎から出たものであることと、「かぶりつき」という言葉も、舞台で本水を使うとき、一階席最前列の客に水よけの「かぶりもの」を貸す(かぶりものつき)ことから生まれたと知り、歌舞伎に関心を持ったからである。照明も新劇とちがって白熱灯を使い、えもいわれぬ山吹色であった。
 
 だれがいったか知らないが、真の千両役者は、千両稼いで万両使う役者のことだという。千両は現在のレートに直せばおよそ一億円。年収一億は少ない金額ではない、一両で米一石が買えた時代である。
しかしながら、大勢の弟子や妾をかかえ、芝居で着用する贅沢な衣装や小道具も自前、遊ぶにしても、懐具合を気にするようでは小さいといわれるし、ほかにも随分な経費が要ることを思えば、二千や三千では大いに不足。そこで千両役者はスポンサーに貢がせた。それが吉原、魚河岸、札差である。
 
 吉原といえば、「花柳界」という言葉は、吉原の大門を入ると両側に引き手茶屋が並んでおり、中央に柳と桜とが互い違いに植えてあり、その桜(花)と柳から生まれたというがほんとうだろうか。不勉強ゆえ私は知らない。
また、「花街」というのは新しい日本語で、戦前、玄人衆は花柳界とか花街(かがい)とかいったが、「はなまち」とは絶対にいわなかったそうである。芸者の名を「源氏名」というのも品がなく、芸者の名はかならず「芸名」といい、「源氏名」は女郎だけにかぎったという。
 
     それはさておき。
あれは昭和46年の晩秋から初冬にかけてのある日のことだった、OMさん、THさん、そして庭園班同期KYさんの女性三人が韓国へ旅立ったのは。主に慶州、ソウルで7世紀以前につくられた金銅仏を鑑賞する旅であったように思う。
三人の共通点は、文学部で古美研に在籍していたことくらいのもので、仲がよかったわけのものでもなかったが、卒業旅行の先取りであったのだろうし、思いついた時に行かねばという考えがあったのかもしれない、決めてから旅立つまでの早かったこと、電光石火であった。OMさんは、「どう、らしいでしょう」とのたまっておられました。
 
 あまり急だったので、餞別を渡すのも忘れたほどで、というのも、一人にお渡しすると、ほかの二人にもお渡しせねばならず、まして、KYさんは庭園班であったから、優先してお渡しするのがスジであり、ソレやアレやがぐるぐる頭を駆けめぐり、結局だれにも渡さずじまい。なんのことはない、忘れたのではなく頬被りしたのだ。
日程もロクに訊かなかったから、三人がいつ帰国したのかも分からなかった。帰国していたことが分かったのは、OMさんが旅の写真を見せてくれたからだ。金銅仏は忘れてしまった。いまも鮮明におぼえているのは三人の記念写真。
 
 韓国の伝統衣装・ハンボク(韓服)とはちがい、チャイナドレスとハンボクを綯い交ぜにしたような、どちらかというとチャイナドレスに近いドレスを三人ともお召しになっていた。それもちょっと、当時の早稲田界隈で着て歩くのは憚られるような派手な色。ところが、その派手な色の、別誂えのようにピッタリ身体になじみ、裾が割れて、チラリと腿が見え隠れするドレスがよく似合っていた。要するに私のいいたいのは、色にもデザインにも負けていなかったということで、三人とも若かったのと、満面の笑みをたたえ、自信を持って着ていたからよかったのである。OMさんは緑、THさんは赤、KYさんはピンクのドレスだったと思う、写真はないが。
 
 三人のあいだで、だれが北方系だとか、あなたは南方系だとか言い合ったそうだ。目の大きいのはやっぱり南よ、と誰かが言うと、そうでもないよ、顔の形からいえば北よと別の人が言い、目の細い人は満州系かなとまた別の人が言う。チャイナ・ハンボク服は三人のお気に入りであったようだ。
「あの恰好で学館に来てもらえませんか」と私がOMさんに言うと、「それはないでしょう」とOMさんは笑っていた。あの時そうしてくれていれば、学館に居あわせた者の多くが幸せな気分になれたであろうし、後々の語りぐさにもなったと思う。ほんとうに惜しいことをした。
 
 OMさんはあのとき役者の気分だったのかもしれない。原色の衣装を身につけて、つねの自分とは異なる自分を満喫していたのかもしれない。いまにして思えばステキな役者だった。こうして書き記していると、庭園班も男女を問わず、味のあるいい役者が揃っていた。彼らは和事から実事、荒事までこなした、颯爽と滑稽味をまじえて。         

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