Jan. 27,2006 Fri    庭園班OB(1)
 
 率直にいって役者がちがっていた。庭園班の面々を見ていると、持てる力の八割しか出していないように思えた。余裕があった。安心して見ていられた。これはなんでもないようにみえてたいへんなことであった、彼らはまだ学生だったのである。
人にはそれぞれ持ち味がある。それは料理の味に似て形がない。味のわからぬ者に持ち味を説いてもはじまらない。持ち味は皮膚と心で感じとるものだからである。舞台に立った役者の持ち味は、それをみた人にしかわからないだろう。庭園班の面々の檎縦自在は、うまい料理の隠し味である。
 
 個性と持ち味は似て非なるもので、個性は先天的にその人に属するが、持ち味はその人が培い、ほとんど無意識につくりあげるものである。だが、二十歳やそこらの彼らが、いつどこで持ち味を身につけたというのだろう。それゆえ役者がちがうのだ。
役者になくてはならぬものが二つある。ハラ(肚)とニン(仁)。ガラ(柄)も入れると三つになるが、ガラは持って生まれた身体的条件。ハラは、ハラ芸とかハラが薄いとかいうときのハラで、行動の精神的指針、あるいは、具体的な行動の指針という意味合いを持つ。ニンは、芸で築き上げる役の条件、または役の可能性といえばよいだろうか。坂東玉三郎は女形、「仮名手本忠臣蔵九段目」の戸無瀬は大役であるが、立女形の大和屋のニンに合い、加古川本蔵や由良之助は立役ゆえニンではない。
 
 そういう大雑把な言い方もできるが、「封印切」の遊女・梅川ならニンに合い、井筒屋の女将おえんのニンではないというほうがよい。梅川には色艶が不可欠で、おえんは和事のまろやかな滑稽味が身上。玉三郎の身上は色艶、そして、キレと気っぷのよさである。
松山のMK君は特に意識してモノをいわずとも、何気なくいったことが芝居のせりふになっていて面白い。MK君の長ぜりふはメリハリがあって聞き手を飽きさせない。なによりも間のよさで聞かせる。KY君とMY君は歌舞伎にたとえると、「文七元結」の長兵衛とお兼、イキが合っている。学生時代、彼らの会話を聞いていたら傑作、よくいうものだとあきれる。
 
 二人の活躍の場というと、ふだんは学館であり、学館に出入りする人々への寸評はいまも輝きを保っている。私なら評にかからずと無視したであろうことどもを、二人の掛け合いで巧妙に再現している。HKは人間観察の達人であり、一言で人品を表現する才に長けている。
思えば庭園班歴代のチーフはほんとうによくやった。とりわけHKのときは上の学年が一人もいなかったからたいへんだった。HKはほとんどすべての時間を庭園班にそそいでいた。いま考えてもHKの活躍は獅子奮闘、八面六臂といっても過言ではない。HKの仕事は2年後U君に継承され、U君は凛として見事にチーフ役を果たした。U君に対する同期の信頼は篤い。
 
 離ればなれになった後、さまざまなことが起き、庭園班一同だれひとり楽をしてきたわけではない。それぞれがそれぞれに悩み苦しんできたと思う。だが、懊悩の分だけ私たちは懐かしさを育ててきたのかもしれない。役者が人知れず楽屋で苦悶し、それを笑顔に変えて舞台に上がり自らの芸を育てるように。庭園班の面々が培い育ててきた花と実は、平成17年10月、嵐山の舞台いっぱいにえもいわれぬ香りを放っていた。私たちの顔見世だった。

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