May 12,2014 Mon    室生寺とシャクナゲ
 
 感動は時間の経過とともにうすれてゆく。そうならないためにたいせつな人と感動を共有する。だがそれでも感動がうすれてゆくのをとめることはできない。人と共有できなければ風景と共有する。再訪したとき、あるいは夢をみたとき語りかけるのだ、感動をもらうため会いに来たのだと。
 
 国内で感動した風景は少ない。大山の東から朝日が徐々に昇り、それまで大山の影になっていた米子市全体が7、8秒でさぁっ〜と明るくなる。そういうダイナミックな風景を見せてくれたのは米子の伯父夫婦か鳥取の従兄だったか、記憶は定かでない。ダイナミックといえば北海道の燃えるような紅葉。
旭岳の赤も鮮明におぼえているが、紋別から名寄に向かい、名寄から旭川へと道路を左折した直後、目に飛び込んできた山全体が真っ赤になった風景は忘れがたい。そして根釧原野。北海道が観光ブームになる以前、昭和40年代後半の6月半ば、野趣に満ちた茫洋たる風景にしばし見とれ贅沢な時間は過ぎた。大山と北海道の大自然は心の風景である。
 
 海外旅行で特筆すべきは1972年秋、アフガニスタン1ヶ月の旅。ヘラート近郊のタフティ・サファール(旅人の玉座)の夕景、上空80mくらいの航空機から見たマザリシャリフのブルーモスク、バーミヤンの石仏、石仏(55m)の頭に上がって見たヒンズー・クシ山脈の雪景、そしてバーミヤン村、砂漠に忽然とあらわれる五つの湖バンディ・アミール。カブールからバーミヤンに至る道に延々と続くポプラ並木に夕日があたって黄金色にかがやく光景、アフガニスタンからパキスタン国境を越えて移動するキャラバンと5000頭以上の羊の群れ。
 
 パキスタン入国で記憶に残っているのはペシャワール美術館のガンダーラ仏。閉館間際に行ったのがよかった。館内は完全貸切。腕組みして立っている館員にすこしくらい時間延長してよと頼んだら、すこしだけよと返してくれた。おかげでゆっくりみられると思ったが、美の極致というほかない仏像たちが早く、早くとせかせるのだ。
いや、そうではないだろう、感動が極まるとある種ショック状態に陥るとでもいえばいいのか、からだがぞくぞくしてガンダーラ仏とじっくり対峙できないのだ。造形美術をみてあのような状態になったのはそのとき一度きりである。
 
 イスラマバード上空からみたモヘンジョダロも忘れがたい。動いているのは航空機のはずなのに、黒ずんだモヘンジョダロの遺跡が動いていた。そういうふうに感じた。太古からの蠢きである。
 
 アフガニスタン旅行の翌年夏はインド、秋は北アフリカへ、翌々年秋はギリシャへ行った。それぞれ3週間ほどの旅だった。北アフリカもギリシャも、インドでさえ感動はうすかった。アフガニスタンの印象が強すぎたからである。そのとき思ったのは、しばらく海外旅行から遠ざかるということだった。
未知の土地を旅しても、意識しようがすまいが、つまるところアフガニスタンとの比較旅行になってしまう。しかし峻烈な風景も時がたてば色あせるかもしれない。そうなれば見知らぬ町も彩色を取りもどすだろう。
 
 それからは音楽と美術を訪ねる旅が多くなった。二度目のリスボンは特に何かをめざしたものではなく、前回見ていなかったシントラ、ムーア人の城跡、ロカ岬を見る旅だった。24歳で初めてリスボンへ行って22年がたっていた。あのとき感じたことと22年間の人生で見たものとがないまぜになって、からだのそこかしこに疾風が吹き、頭からではなく血管のすみずみに感動が走り、えもいわれぬ気分に満たされた。旅はユーラシア大陸の最西端ロカ岬で終わってもいいと思った。
 
 英国カントリーサイドの美しさを見るまで、たしかにそう思っていたのだ。そのことについてはエッセイ3ほかで十分に記したからくり返さない。その年の6月に英国の一部を3週間ほど旅し、同年10月にはスコットランドと南西フランスへ行った。スコットランド10泊、南西フランス10泊の計20泊22日、スコットランドはレンタカー、南西フランス(ロカマドゥールほか)は鉄道を利用した。
日本でもそろそろ世界遺産という文字が普及しだしたけれど私は興味がなかった。1969年夏20歳で初めてヨーロッパに行ったとき、世界遺産はなかったし、ある時点でそうなったことは承知していた。私は単に美しいと思える場所や光景が自分遺産であると思ってきただけである。
 
 そうなのだ、6月の英国についていえば、ボーマリス城(ウェールズ)よりもボーマリス城近くの海に面し芝草の繁茂する野っ原駐車場の美しさや、コッツウォルズの村から村へ通じる小径にはえる足の長い草々が風にゆれるすがたや、ノースヨークシャー・ムーアの荒涼たる風景。10月なら北海に置き去りにされた孤高の廃城ダノッター城(ハイランド)、山間を曲がりくねりながら低くたれこめる霞に分け入るグレン・コーの風が胸を打ったのである。遺産となる風景は季節と時刻に負う。
 
 そういう意味において5月1日の室生寺は自分遺産のひとつになった。駐車場に車を駐め料金を払おうとしたら、係の70代の女性が、「56年ここに住んでるけど、こんなにきれいなシャクナゲは見たことはない」と言った。帰りがけ、太鼓橋に閉門(室生寺は午後5時閉門)の木戸をかけていた50代後半の女性従業員は、「室生寺に15年勤めていますが、ことしは信じられないほど花の量が多く、いままでで一番きれい」と言った。
 
 午後4時半を過ぎて五重塔石段の下でシャクナゲにかこまれ、西日を浴びる五重塔の荘厳な佇まいに見とれていた人たちも誰かに話したかったろう。「散策&拝観」の「室生寺石楠花」にオレンジ色の長袖Tシャツを着た女性が写っている。家内や私と一瞬目が合ったこともあって、なおさらそうだったのではないだろうか。ひとりで来て、話し相手のいない人はそういう思いに駆られたと思う。
 
 女性がわれわれの会話に関心があるのを承知で先ほどの70代、50代後半の女性から聞いた話をした。女性が聞き耳を立てたのは気配でわかった。なに、需要と供給の関係である、喜ばしいことだ、そう考えて話を続けた。土門拳でさえこんなに多いシャクナゲは見たことがない。もうすこし時間がたてば、せめて6時をすぎれば幻想的な光景を見られるはずなのにと。気づかれぬよう横目で見たら、女性の顔に同感と書いてあった。思ったとおり波長が合うのだ。
 
 室生寺は四季を通じてステキである。鎧坂から見上げる金堂、金堂に対座するかのような弥勒堂、端正な五重塔を見上げて立つ本堂、それぞれの堂内に鎮座まします仏たち。石段から俯瞰する金堂、弥勒堂の美しさ。柿葺と檜皮葺の屋根全体を見ることのできる伽藍の配置、景観を遮ることなく植えられているスギとヒノキ。長年そのように思ってきても、シャクナゲを供にし、西日に照りかえる五重塔はいままでの室生寺のなかでも別格の美しさである。
 
 室生寺とシャクナゲの画像(下)数枚を添付し、家内は旧友にメールを送った。旧友は小磯良平大賞展の佳作を受賞した画家である。メールを受け取った翌日、旧友は室生寺へ行った。矢も盾もたまらなかったのかどうかわからないとしても素早やかった。善は急げ、迅速な行動は豊かな感性に裏打ちされている。来年、シャクナゲの見ごろに行こうと思いながら、いま、行けるときに行かねばならないと思ったのだ。
私の友人には来年と思うタイプが多い。親兄弟が長命で、60代は安全と思っている。私は決して来年にとは思わない。母は病床にあってその年の春、十五代目片岡仁左衛門の襲名披露に行けず、同年秋71歳で旅立った。父はそれより早く48歳で鬼籍に入った。妹も先年62歳で他界した。
 
 関西国際空港のラウンジにいたにもかかわらず3年半で2度も急病になって自宅にUターンした私は来年どころではない、いまのいまでさえ危うい。五重塔の石段を上ってそのまま帰れない日も遠くない。黄泉への石段が片道であることも意識できず悠久の時は過ぎてゆく。
経験は危機意識をみがく。感動は危機の垣根にはさまれている。いつでも行けると思うなかれ、肉体に支障がなくても目的地に支障が生じることもある。室生寺五重塔も台風で損壊した。
 
 感動は時間の経過とともに色あせるだろう。しかし束の間、室生寺で感動を共有できたことに感謝。ありがとう。
 


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