Apr. 21,2014 Mon    13年50万キロ
 
 あれは1984年から1990年までであったか、車ごと舞鶴(または敦賀)=小樽を頻繁にフェリーで往復していたのは。海の荒れる冬場〜早春はフェリーを使わず、その間伊丹=千歳間の往復数回は航空機を利用したし、台風襲来時のフェリーは運航中止されたから、それを除いても年に4回くらいフェリーで往復していたと記憶している。
 
 当時、私の母は宗教法人の代表役員で、本部は京阪神に置かれていたが、支部のいくつかは地方都市にあり、札幌と紋別にもあった。紋別支部の例大祭は毎年8月に催され、7月下旬には私は必ず札幌に入り、札幌の分譲マンションに逗留した。冬季や急な用ができたときは、大阪=千歳間と丘珠=紋別間は航空機を利用した。またあるいは内地から来る方たちの接待もあったから、紋別行きの途中寄り道して富良野や美瑛などを車で案内したことも多かった。
 
 マンション近くの月極駐車場と契約していたこともあって、車1台を駐車したまま月に2回は航空機で帰阪していた。私は自分名義の乗用車2台を所有していた。1台は大型セダンで、もう1台は2ドアクーペ。札幌に置いていたのはいうまでもなく大型セダン。この車で内地の客人たちを春から秋にかけて知床、摩周湖、屈斜路湖(美幌峠)、白金温泉、稚内、あるいは、洞爺湖、羊蹄山、積丹半島、小樽、中山峠など案内した回数はトータルで40回以上になるだろう。
 
 案内したのは北海道だけではない、京都、奈良、伊勢、鳥取、大山、松江、出雲、玉造、萩、倉敷、津山、飛騨高山、霧ヶ峰、信州、指宿、長崎、阿蘇、高千穂、湯布院を含む九州のほぼ全域、加賀、山中、白山を含む北陸ほか、いずれも複数回、年間100日以上の宿泊、大山・大神山神社や出雲大社は何回行ったかおぼえていない13年間の走行距離は50万キロをこえる。私が車の運転に習熟しているとすればそういう理由による。
 
 むろん運転は仕事ではない、旅行や会食の企画と手配、さまざまな行事の推進と管理が本業である。会食についていうと、大阪は北乃大和やなだ万、京都は京大和や下鴨茶寮、ときには萬亀楼(有職料理)、もしくは嵐山嵐亭(夕食は嵐山、昼食は京都センチュリーホテルの嵐亭と使い分けた)、奈良は菊水楼。あのころの一時期なだ万には花板として中村孝明がいたが、シャングリラ・ホテル店(シンガポール)に出向してしまった。孝明の吸物の味をこえるものにいまだ巡り会わない。
 
 北乃大和の若い支配人三木氏は京大和に転出した。顔も物腰もやわらかい人だった。京大和は高台寺近くにあって、見晴台から八坂の塔が間近にみえ、祇園界隈〜河原町まで一望できる絶好のロケーション、茶室風の離れで懐石料理を味わえる。北乃大和で挨拶を交わして一ヶ月も経たないうちに京大和で会ったからか、三木氏は意外な顔をした。
 
 嵐山の嵐亭にはそのころ老年の庭番がいて、嵐山界隈のコンンシェルジュから駐車場=往時の嵐亭には鬱蒼とした広葉樹に囲まれた駐車場があった=の案内までやっていた。風貌と法被姿が明治の大和絵から抜け出たような古径な老人。
亭内の延命閣は大正時代の建物で、広い庭から保津川を見下ろし、嵐山を見上げることができた。最初の庭園班OB会(2005年10月)の会場である。だがすでにそのとき駐車場の林は売り払われ、庭番は消えていた。
 
 奈良・菊水楼には川太郎という芸名(花柳界では芸者の名を源氏名とはいわず芸名という、源氏名と呼ぶのは女郎である)の芸者がいた。自民党歴代の総裁が総理大臣就任の翌年、伊勢神宮参詣後東大寺を拝観し、晩餐は菊水楼というのが定番。菊水楼のそういう席に侍るのは決まって川太郎のようなきりりとして仇っぽい、芸事に秀でた三条芸者。日舞の師匠は初世花柳芳之丞。代稽古は二世花柳芳之丞(当時は花柳雅芳之)。
 
 どの料亭にもあてはまることであるが、料理はいまの菊水楼より数段上だった。長年の無沙汰で断言はできないとしても、芸者の質も川太郎が活躍していたころのほうが数段上かもしれない。川太郎は三条芸者のなかでも特別である。
 
 香港、シンガポールなど東南アジアへ添乗員並みの回数をこなしたのもほとんど仕事の一貫であったし、海外渡航数がケタはずれに多かったせいか日本で起こったことはよく知らなかった。帰国して新聞をチェックするのもはじめのうちだけで、帰国2日後に再出国とか国内出向では思うようなチェックなどできるわけがない。
飛鳥時代の遺跡が奈良で見つかったことも、京都市営地下鉄の工事中に新発掘があったことも海外渡航中の出来事だった。
 
 80日間世界一周の経験はないけれど、80日間無休の経験は何度かある。40度の高熱が出たとか、虚血性脳疾患の検査入院とかで無休記録は途切れた。代表役員、三代目の沙庭の無休記録はしかし450日におよぶ。時間は疾風のごとく過ぎ去った。
 
 海外、国内を問わず個人旅行の大部分はレンタカーによる。仕事でさんざん車を使っているのに外国に行ってまた車なのかとは思わなかった。ヨーロッパは鉄道もいいけれど車のほうがさらにいい。時間を自由自在に組めるし、走っていてこれはと思うステキな場所があれば車をとめて風景を眺めていられるし、重い荷物もトランクや後部座席に積める。時刻表や乗換ともおさらば、夫婦ふたりで旅するにはうってつけなのだ。
 
 こんなことを書いていたら止まらなくなる。だからこれくらいにしておく。仕事から得たものよりはるかに遊びから習得したもののほうが多い。最初は仕事でも、回数が異様に増えれば遊びにする。そうしなければ飽きてしまう。いったい誰が毎週のように大徳寺や三千院、詩仙堂に行って飽きずにいられようか。
 
 
 韓国でおきた沈没船事件は他人事と思えなかった。沈没船は私が利用していた船よりかなり小さめで(当時の新日本海フェリーのニューすずらん号は約16800トン、らいらっく号は約18200トン)、航行距離も短いけれど、フェリーであることに変わりはなく、しかも沈没船はかつて鹿児島=沖縄間で使われていたフェリーなみのうえ号6580トンではないか。
 
 新日本海フェリーの本社は大阪にあり、通常の乗船予約はそこに電話しておこなってきた。旅行代理店を通すと前払いだし、手数料を取られたりする。経験の浅い20代はともかく30代にさしかかるころ用心深くなった私は、キャンセルした場合の取消し料の発生の有無とパーセンテージなどの詳細を予約時に問い合わせる。
 
 20年以上前のことなのでいまはどうか知らないが、当時は取消し料ゼロ、フェリーの料金は乗船前に舞鶴港で払うのである。予約した部屋は船内に一部屋しかないスイート、それだけに室料も安くはないけれど、料金に見合うだけの便宜はあって、20時間以上の航海は3食付き、スイート客の食事は小さな専用レストラン(一組だけということです)。
 
 食事時間も融通がきく。5分前に室内電話に連絡が入る。部屋は都市ホテルのスイートに等しく、船にしては部屋もバスルームもベッドもかなり大きく(大きなついたてをはさんでリビングルームがある)、評価の足しにならないまでも、まっさらのバスローブや各種アメニティも備えている。
 
 感心したのは部屋のワードローブ内に救命胴衣と浮き輪が用意されていたことだ。非常時には乗組員の指示いかんにかかわらずこれで海に飛び込んでくださいということかなと思った。当然のこととして緊急事態の説明案内は乗客全員におこなわれる。救命胴衣もそれぞれ目につきやすい場所にある。
 
 乗客の目に見えないところでクルーは安全点検をおこなっていた。ふだんから船舶の点検にぬかりがなく、避難訓練も多く実施するなど安全管理に使う予算の規模は想像以上に大きかった。船会社や乗組員の危機意識は当時から高かったのだ。特に海難事故につながる過積載という危険きわまりないズル行為とは無縁であったと思う。
安易な管理運営は経営を危うくする。畢竟、自社の船舶を守ることは乗客を守ることであり、自社を守ることなのだ。単なる船ではない、乗組員の誇りに私たちは乗っているのだ。
 
 乗船前のある夜こんなことがあった。その日、家内が急に行けなくなり、ひとりハンドルを握って舞鶴港に向かい、チケット売場で二人分の料金を支払おうとした。すると係員が、いえ、ひとり分で結構ですという。スイートはひとり分の料金では利用できないと規約に記されている。
 
 それはどうでしょう、また同じようなことが起きたらどうするのですかと係員に尋ねたらば、「お客さまを信用しています」という言葉が返ってきた。名前や顔をおぼえられているわけのものでもないだろう。顧客というにはたいした回数乗ってもいない。それに規約は規約である。客に配慮してくれたということもあるけれど、なんとも鷹揚で良き時代だった。
 

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