Mar. 08,2014 Sat    ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第二番
 
 「逢いびき」は古い英国映画である。製作は1945年、日本での封切り(公開)は1948年、いずれにしても小生は生まれていない。17歳年長の従姉が女学校時代にこっそりみにいき、ドキドキしたと話していたことがある。ドキドキしたのは密会なのか、学校にバレたら停学処分にされるからなのか、当時小学生だった小生は知るよしもなかった。
 
 逢いびきする男女は双方とも既婚者で、当時の従姉と状況が異なっていたのだけれど、恋愛への関心という点で共通項があったのか、経緯はどうあれ10年前にみた映画のことをだれかに話したかったのだろう。特によかったと言っていたその音楽がラフマニノフのピアノ協奏曲第二番、なかでも第一楽章である。
 
 近年ではアシュケナージ(ピアノ)&ハイティンク(指揮)&アムステルダム・コンセルトヘボウ84年盤がロマンと凜々しさ、量感、スケールの大きさを保ちつつ、木管楽器のたゆたうような豊かさを感じさせる名盤。「逢いびき」のサウンドトラックも秀逸、アイリーン・ジョイスの鍵盤に託す情感はたっぷりとしてあふれるがごとし。
 
 ラフマニノフの小曲にすぎないとしても、「パガニーニの主題による狂詩曲」の第18変奏はおいしい前菜というか、初めて出会う美しい人への胸の高まりに似て粋と期待に満ちている。この曲も「逢いびき」に入っている。
 
 ピアノ協奏曲第二番「第一楽章」は浅田真央のフリープログラムで知られている。この曲をすすめたのは振付師タチアナ・タラソワ、決めたのは浅田真央である。自らの演技にイメージしやすいと思えたからだろう。第一楽章の演奏時間は約11分だが、「逢いびき」の第一楽章(サウンドトラック)は4分ちょっと、真央ちゃんのフリープログラムは4分、きちんと符合する。
 
 小生はしかし2010年バンクーバーで演じたハチャトゥリアンの組曲「仮面舞踏会」一曲目のワルツ(約4分)のほうが合っていたと思っている。浅田真央のために作られたかのような躍動感とエキゾチズム。仮面舞踏会のワルツはこんなにもステキだったのかと思わせる何か。トリプルアクセル、ステップ、スパイラル、そのすべてが見事に曲と調和していた、あたかも浅田真央が組曲そのものであるかのように。
 
 冬季オリンピックの花フィギュア・スケートは人を酔わせるものでなければならない。1984年サラエボのアイスダンス、「ボレロ」を舞ったトービル&ディーンはラヴェルの真骨頂を知らしめた。ボレロはトービル&ディーンの「人生は美しくあるべき」というテーマの凝縮であり到達であるだろう。
 
 志を高く持つことの難しさ、結実したときの陶酔感にも似た妙なる心地。演技は簡潔でムダのないほうが見る者に訴える力がある。色気さえ簡潔であるほうがいい。スケーターの心と頭脳が優位に立とうと自らを啓発するのはほんの一瞬である。私たちはその一瞬に酔うのだ、短い時間に長い夢をみるように。
 
 フィギュア・スケーターとしての技術力と芸術性の高さ、輪郭の明確さが浅田真央の魅力であることは多くの人が認めるところとして、小生は真央ちゃんの姿にある人物を重ねることがある。その人は1973年夏のインドの旅の友で、「庭園班OB会」の「思い出す人々2006年11月・いもうと」に記したKS(木内佐知子)さんである。
 
 日本人形の面立ち、つるんとした美肌、脚がまっすぐで形のいいのは浅田真央と類似している。メダルを争う勝負師の一面を持つ浅田真央が癒やし系かどうかわからないけれど、木内さんはとびきりの癒やし系だった。
 
 インド鉄道のコンパートメントで小生のアフガニスタン旅行話を熱心に聞いてくれた女性3人、野呂令子さん、佐藤真理子さん、木内佐知子さん。江別、新潟、松本と出身地はばらばらであるが、南アジア、あるいは西南アジアへの関心の高さという点で一致していた。
木内さんはほかの二人より1〜2歳、小生より4歳年下。われわれは名前を言わず「いもうと」と呼んでいた。野呂さんが小生のことをどう呼んでいたか記憶は定かでなく、佐藤さんと木内さんは「おにいちゃん」と呼んでいた。木内さんは安倍晋三氏の出身大学の数年先輩。
 
 佐藤さん、木内さんとは帰国後、インド大使館での催事や、都内で開かれたインド関連の行事に参加した。野呂さんはインド旅行の翌年学生結婚したこともあって(相手も学生)、われわれと行動を共にすることはなかった。佐藤さんと木内さんは、小生がモロッコから帰国したとき羽田空港に迎えに来ていた。
思ってもみなかったからうれしかったし、都内の賃貸マンション(小生の住まい)まで一緒、羽田からの道中でもマンションでも旅の話は尽きなかった。何を話したかおぼえていないけれど、話し手と聞き手が独特の呼吸をし、互いの息が自然に合っていたように思う。
 
 われわれの交流はわずか1年半と短かったが、いまにして思えば濃密な1年半だった。しかしMさんに対して生木を裂くような別れかたをして日の浅かった小生は女性の魅力に抗いつづける沈丁花、ピアノ協奏曲第二番には人間に浮揚するさまざまな思惑、紆余曲折が織り込まれていて、小生はというと一対一の逢いびきはなく、ピアノ協奏曲第二番というより仮面舞踏会であり、別れを告げる楽章も音符もなかった。
 
 その後、佐藤さんとの交流は長いあいだ途絶えていたが、木内さんが亡くなったのを知ったころ復活した。佐藤さんも同じ気持ちだったろう。
 
 名演、名曲にはふれあいをよみがえらせる力があるのだろうか、それもほとんどは異性とのふれあいを。
いまも心残りなのは、木内さんが元気なころ二度も松本に行く機会があったのに「翁堂」を訪ねなかったことである。10年ほど前佐藤さんに電話したとき、「だれかわかりますか」と問うたらば、「おにいちゃん、おにいちゃんでしょ」ときっぱり言ったように、木内さんも不意にあらわれた小生を見て驚き、「おにいちゃん!」と言ったかもしれない。
 
 木内さんを追懐して思い出すのは、英国人がよく口にするラブリー(Lovely)。木内さんはラブリーという言葉にぴったりの、ふんわりしてかわいい、こころなごむ人だった。

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