Dec. 08,2013 Sun    談山神社から室生寺へ

               画像は11月29日午後2時ごろの聖林寺
 
 2013年11月29日正午前、談山神社へ向かった。経路は阪神高速道路・池田ICから松原JCTまで行き、阪和道の美原JCTで南阪奈道へ入って葛城ICで降りる。その後は一般道路を走るという行程。葛城ICから国道24号線を東に向かうのだが、進行方向右に畝傍山をのぞむあたりで右折、つまり南下し、岡寺の近くで東に進み、甘樫丘の南・石舞台そばの狭い道を抜けて多武峰へと向かう約85キロ、90分のドライブである。
 
 談山の名は中大兄皇子と中臣鎌足が大化改新の密議を談ったという伝承に依拠する。談山神社と甘樫丘、飛鳥板蓋宮との位置関係を鑑みれば、密議には格好の地といえる。
元来、妙薬寺と称せられた多武峰寺が、明治初年の廃仏毀釈で神社に衣替えしたということで、本堂が本殿と名を変え、中臣アラタめ藤原鎌足の廟所を本殿とし、寺のほかの建物も名称変更する。檜皮葺きの十三重塔は苦しまぎれに神廟といわれた時期もあったけれど定着せず、十三重塔に名をもどした。
 
 神社の裏手を20分ほど登った御破裂山の頂に藤原鎌足の墓がある。御破裂山の名の由来は、平安時代上期(898)から江戸時代初期(1607)におよぶ700年間におきた35回の天下異変時(個々の事例は不明)、鎌足の墓所がそのつど大鳴動したことによるというが、ほんとうだろうか。
 
 談山神社をあとにして県道37号線を北上、国道165号線へ向かう途中に聖林寺はある(談山神社からわずか5、3キロ)。聖林寺はかつて多武峰寺(いまの談山神社)の末寺で、多武峰寺と興福寺が藤原氏の氏寺であったことから、両寺は争いの種が尽きず=近親憎悪かもしれない=聖林寺は興福寺僧徒の度重なる焼き討ちにあっている。
 
 聖林寺へはことし10月20日、間断なくふる雨のなか訪問した。聖林寺から眺める三輪山と大和平野は美しい、のはずが、あいにくの雨とガスで三輪山も平野部もよくみえず興ざめだった。今回もすっきりした天気と言いがたかったけれど、空気が澄んでいたせいか三輪山もきれいにみることができた。
 
 聖林寺の国宝十一面観音はこんにち仏像に興味をもつ人なら誰でも知るほど名が通っている。慶応4年(1868=明治元年)、本尊を十一面観音とした大御輪寺の住職が仏像三体(地蔵菩薩、不動明王、十一面観音)を大八車で運び、法隆寺、長谷寺などへ疎開させたのが事の発端という。
 
 聖林寺参観を共にした友人が読んだという和辻哲郎著「古寺巡礼」には十一面観音について、「路傍に放棄せられるという悲運にあい」、「この放逐せられた偶像を引き取ろうとする篤志家はその界隈にはなく」、「幾日もこの気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた」が、「ある日偶然に聖林寺という寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、拾い手がないなら拙僧がお守をいたそうと言って自分の寺へ運んでいった」と記されている。
 
 マユにツバの話は端におくとして、和辻哲郎は十一面観音の美しさを委曲を尽くして讃えており、その筆致たるや後世の評者の及ぶべからざる類のもので、興味を示された方はその箇所を拾い読みされるがよろしかろう。十一面観音は奈良国立博物館(当時は奈良帝室博物館)に陳列中だったとも記している。
過度の讃美に鼻白む習性をもつ小生ではあるが、十一面観音はたしかに美しく品もそなえている。品格のない美は時代をこえることはできないのだろう。
 
 聖林寺から室生寺までは24.3キロ、ゆっくり行っても50分のドライブ。この日の奈良北部〜三重県境の空模様は変わりやすく、曇時々晴、一時アラレだった。午後3時過ぎの室生寺、雨上がりでしっとりしていたのはよかったが、妙に暗かった。前回、室生寺に行ったのはことし6月半ば晴天、明るい日差しが目の奥に残っている。初夏もいいが、晩秋もいい。
 
 30代になって、京都あるいは奈良の古寺近くの下宿か旅館でうたた寝して、目がさめると枕元に美女がいて、その日の拝観についての感想というか四方山話をし、ふと目がさめて続きをみたいと思いながらまた眠ってしまうという夢を何度もみた。美女は脚のカタチがきれいで、体躯のバランスもよく、独り身だった。
 
 家内にそんな話をしたら、前にも聞いたといわれた。いつだったか、KY君に別の夢の話(KY君が海外旅行に行った夢をみたと冬の夜電話したら、KY君はその夜帰国したばかりだった)をしたとき、また夢の話ですかといわれてしまった。
 
 学生時代から30代半ばの若いころ、季節のなかでは晩夏が好きだった。遊び疲れて束の間休養する晩夏。夏の暑さは遠のき、ひぐらしの声が心にしみ入る季節。日没前、晩夏特有の色と匂いがした。美しく、かぐわしかった。
 
 晩秋ともいえる晩年にさしかかったこのごろ、晩夏より初夏のほうがいいと思うようになった。体力のおとろえとともにこれはと思う遊びもできなくなり、なにをするにも休息が必要。連日38℃の猛暑がつづき、晩夏になっても36℃では身体がもたない。室生寺からの帰路、ああ昔はよかったとため息をつき、一日が暮れました。

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