Nov. 07,2013 Thu    波乃久里子
 
 十八世中村勘三郎が逝って十一ヶ月、姉の波乃久里子が10月29日午後、大阪市北区の阪急うめだホールで自らと新派、女優、歌舞伎役者を語った。
 
 先代(十七世)勘三郎は長女の久里子をネコかわいがりし、オネエちゃんと呼んでいた。勘三郎の岳父六代目尾上菊五郎は孫の生まれる前から男女の名を考え勘三郎夫婦に伝えていた。が、実力人気ともに図抜けていた大御所六代目にはまったく耳を貸さず、戦中戦後の疎開先・久里ヶ浜、奥方の久枝さん、寺子屋のよだれくりにちなんで久里子と命名したのである。これには六代目も怒った。なんだあいつはオレに逆らいやがって、カキとかクリとかまるで食い物みたいじゃないか、と言ったかどうか知らないけれど、楽屋の取り巻きにぶちまけたそうだ。
 
 勘三郎は上方から江戸に下った三代目歌六60歳ごろの子で、長兄初代中村吉右衛門、次兄三代目中村時蔵と年が離れすぎており、兄たちと較べて歌舞伎狂言もいい役は回ってこず、冷や飯食っていたせいではないだろうが、反骨というかヘン骨というかわがままというか、元NHKアナウンサーで勘三郎と親しかった山川静夫も「勘三郎の天気」を上梓しているほどのお天気屋、機嫌のいいときは恵比寿さま、わるいときは風神雷神。
 
 娘たち(次女は沢村藤十郎夫人)には大甘だった勘三郎だが、息子とはほとんど口もきかなかったという。息子(十八世中村勘三郎)に鏡獅子の稽古をつけている映像がNHKに残っている。取材は山川静夫。当時の勘九郎、稽古は裸。鏡獅子の前シテ弥生の身体の線がはっきりわかるように裸稽古は六代目から十七世に継承されたのだ。
踊る勘九郎はみえても、教える勘三郎は声のみ。しかもほとんど口をきかないのでマイクに入りようがない。したたる汗がはっきり見え、汗の落ちる音もきこえてきそうな稽古風景。撮ったNHKはともかく、撮らせた勘三郎はたいしたものである。
 
 跡取りには厳しく、娘久里子には甘かった父親であったが、一度だけこっぴどく叱られたことがある。「大蔵卿」の太刀持ちの子役として舞台に上がっていた波乃久里子が太刀を持って歩くシーンで、何かの拍子に転んだ。それが客に受けたこともあって、翌日、翌々日とわざと転んだところ、客席で見ていた勘三郎に大目玉を食らったのだ。
その後ウケ狙いのアドリブは御法度と肝に銘じた。そして「勧進帳」の義経をやったとき、なんべんやっても納得のいかない義経に嫌気がさしていた波乃久里子に、新派の花柳章太郎が言った。「義経の心でやってみなさい」と。義経の心になったつもりでやったら、翌日の夕刊に「義経の気持ちになっている」と書いてあった。それまでは花柳章太郎のことを、八重子先生(初代水谷八重子)の楽屋に来る、しかも自分に洋服を買ってくれるヘンなオジサンと思っていたらしい。
 
 十七世勘三郎はとにかく賑やかなのを好み、自宅には絶えず人がいて、ご飯を食べていけという。ご飯を食べていけばご機嫌だから誰も断らない。ある日、大勢の人が自宅にいて、そのなかに泥棒が紛れ込んでいて、みなが騒いでいるのをいいことに何か盗んでいったらしいが、世帯主は船弁慶の弁慶だったとか(「そのとき弁慶すこしも騒がず」=能の地謡)。
その後また泥棒に入られ、そのときは波乃が泥棒の腕をつかんで、「ノリちゃ〜ん、助けて」と大声で叫んだらしい。ところが部屋にいるはずのノリちゃんはいっこうに出てこない。騒ぎを聞いた家人が警察に通報して泥棒が逮捕されたころ、ようやくあらわれた勘九郎曰く、「鏡の前で刀を持って、どうやって泥棒をやっつけようかと殺陣の稽古をしていて手間取った」。
 
 久里子姉妹と勘九郎は年が離れており、小さな勘九郎はいわば姉二人のオモチャ、女装させられたり化粧されたり早替わりさせられたりで、いいように遊ばれていた。勘九郎が中学生のころ、彼の部屋に無断で入り日記を読むと次のように書かれてあった。「殺してやる」。
ノリちゃん(十八世中村勘三郎の本名は波野哲明=のりあき)は太地さん(太地喜和子=1943−1992)のことが好きで好きでたまらなかった。ノリちゃんは太地さんから影響を受けている。歌舞伎では役者がセリフを言ったり踊っているとき、ほかの役者は存在を消す。消せば消すほどいいわけで、これを行儀がいいという。
 
 太地喜和子は新劇(文学座)の女優、新劇俳優は歌舞伎役者とちがって存在を消すということはほとんどない。そのあたりのことを勘九郎に話したとみえて、太地喜和子没後、彼は歌舞伎以外の舞台劇、あるいは、新劇公演に手を伸ばす。仲のよい演出家、脚本家に声をかける。そうしてできあがったのが「浅草パラダイス」や「喜劇・地獄巡り」などである。その過程で勘九郎が指名した寺島しのぶ、中村獅童らが舞台で修業し成長のきっかけをつかむ。
 
 太地喜和子への勘九郎の義理立てはそうとうなもので、仕事がつまっていて太地がやった舞台劇をみにいけなかったという理由で、姉が太地と同じ役を舞台でやったとき、みにこなかった。
田宮二郎の「白い巨塔」(1978年のテレビドラマ。田宮二郎の遺作)で田宮演じる財前五郎の愛人をやった。田宮の生涯の当たり役・財前五郎をとろけさせる色気に加えて財前を束の間癒やすことのできる女を見事に演じていた。勘九郎をとりこにしたのはそれらと、太地喜和子のサラリとした気性であるだろう。舞台の太地喜和子は前だけでなく後ろ姿にもこぼれ落ちるような色気があった。
 
 「白い巨塔」に大阪高裁のタイピスト役で山田五十鈴が出ていたが、このちょい役はまさに「ご馳走」というべきである。というのは、波乃久里子が大女優と認めるのは、水谷八重子(初代)、杉村春子、山田五十鈴。ついでといっては失礼かもしれないが、中村吉右衛門(波野辰次郎)はおにいさん、片岡仁左衛門は孝夫ちゃん、市川團十郎(十二世)は團十郎さま。團十郎は別格で、人柄をこよなく愛したもののようである。
当日、司会役の葛西聖司は父・勘三郎の本名(波野聖司)と同じせいか、妙に親近感がわくと言い、「半沢直樹」をみて自分も高利貸しの役か何か、なんでもいいから出たい、葛西さん、いい方法あったら教えてと言うと、愛之助さんが出ているじゃありませんか、愛之助さんに頼んでみたらと葛西が応じる。波野家と片岡家は遠縁なのである。
 
 波乃久里子は42歳になるまで感謝する心が少なかったそうで(オネエちゃん、オネエちゃんと父親にかわいがられすぎたことに一因はある)、いいえネ、いまはちがいますよ、お客さまに感謝しています、と言っていた。演技のうまさはいうまでもなく、明るく率直、芯から楽しい女優である。
25、6年前、松山政路が新橋演舞場に出ていたとき、所用で東京にいて、いつものごとく舞台はみないのに楽屋だけ訪ねるという不埒な小生に、Fちゃん(小生の名)、夕方から芦田さんの50周年パーティがあるから来ないと誘ってくれた。二つ返事というのはこういうときの決まり文句でしょう、こんな格好(一応スーツは来ていた)でいいのかと問えば、だいじょうぶと言うのでOKした。
 
 楽屋前の通路を歩いていたら、ばったり出くわしたのが波乃久里子。「あら、感じのいい方ね」(久里子)、「友だちのFちゃん」(松山政路)、「よかったら、あとで楽屋にいらっしゃらない」(久里子)。「どうする、Fちゃん」(松山政路)。どうもこうもない、芦田伸介の芸能生活50周年に誘われたばかりではないか。「‥‥しかし」(小生)。
あのときの波乃久里子の残念そうな顔、いまでも忘れられません。数日後、松山夫人に「残念そうな」を省いて話したらば、「Fちゃん、久里子さんのタイプなのよ」と言う。そんなこと聞かなければよかった。聞いたがために未練が残る。久里子さん、40代前半だったのに、いや、40代前半だったから、とても魅力的でした。それにしても松山夫人(元女優の紅景子)、適当なことを言って。團十郎と小生、ぜんぜんタイプがちがうではないか。

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