Nov. 04,2013 Mon    そしてMさん
 
 出会いは不思議だ。誰にでも出会いはあるけれど、出会いがあったこと自体、奇跡に等しい出会いがある。あるいは気の遠くなるような時間がたって奇跡であると感じる。出会いから32年もたって、その間仕事や子育てに忙殺されていれば、おおかたのことは忘れる。忘れなくても記憶があいまいになる。
 
 が、それでも記憶の確かな人がいて、時空の彼方に置いてきた記憶の断片を拾い集め、復元するのである。人が持ってきた古い写真や映像をみて思いもかけない記憶がよみがえる。
写真や映像には心の内奥にはたらきかける力があるからだ。そのとき人はもはや写真、映像をみていない、内奥に閉じ込められた遠くの風景をみている。そして遠くをみる目に美しさは宿るのだ。慈悲深い菩薩の目がそうであるように。
 
 記憶がよみがえるのは写真や映像によってだけではない、近くの風景のみを見るなかれ、遠い過去を思い起こすべし。近いところだけを見ればアラも見える。アラを見れば気分もよくない。気分がすぐれないと文句の一つも言いたくなる。
 
 菩薩や如来を拝して救済されるのは、菩薩、如来に導かれて遠くを見るからだ。或る人間をみるには現在の姿だけをみるべきではない、背景や遠景をもみるべきである。そうすれば自らの姿もみえてくる。慈悲はそうして生まれる。
 
 同窓会に出席すれば個人差はあっても遠い記憶はよみがえる。追懐もなく友もなければ、想起はあっても、このような記述はないだろう。自らの心の深淵を覗けるとしたら、追懐ゆえであり、それほどに友や伴侶は遠方の深みにまで連れて行ってくれる。
 
 友と伴侶がいなければ、心の深淵を覗いても自分の顔しか見えないだろう。小生の原稿用紙のほとんどは追懐である。とりわけ伴侶に話したことのほとんどがここに記される。経験という縦糸と、伴侶や友という横糸が織り重なる部分に創造が生じるのだろうか。
 
 三島由紀夫は「創造という縦糸と礼節という横糸が交わるところに霊性が生まれる」というようなことを横尾忠則に言ったという。三島由紀夫が大隈講堂で講演したのは昭和44年だったか、そのときの前座は五木寛之と野坂昭如。最初に登場した五木寛之は蒼ざめた馬のごとくあがりっぱなし、カチンコチン状態で演台を降りていった。
 
 次の野坂昭如は衣装で勝負をかけたような白ずくめ、口にバラの花を一本くわえて登場した。五木寛之も白の上下だったが、野坂の着こなしと物腰に一日の長があったのは、元タカラジェンヌの奥方の指導よろしくということなのだろうか。衣装に気をとられていたわけではないのに、五木と野坂が何をしゃべったかまったくおぼえていない。
 
 その日、ちょうどいまごろの秋の夜、講演が終わって学生会館に向かって歩いていたらMさんとすれちがった。近づくまで誰かわからず、目ざといMさんが先に気づく。立ちどまったMさんは「三島の講演すごかったんですって」と言った。
 
 こんな時間になぜここにいるのだろう。照明の落ちた学館、ほの暗い道、かすむ街灯。Mさんの生壁色のダスターコートが夜風にひるがえって裾が少しだけ開く。
木々が映って輝く大きな瞳。均整のとれた身体。ベージュ系のコートが洋画の女性のように似合っていた。夜ふけのダンサーにかすかな色気がただよい、近くて遠い存在であったMさんを初めて身近に感じた。
 
 それから2週間か3週間後、「あるのかどうか意識しないのに、なくなったら息ができない」、末尾に「ミスターエアーさま」と記されたMさんの手紙が届いた。
あの日、誰もいない学館前、人通りのたえた小道ですれちがったとき夜風がMさんに魔法の粉をふりかけ、身体に電流を走らせたのだ。ことばにはほとんど意味がない。しかしことばをかけずにいられなかったのだ。人間が思い出を美化するのではない、思い出が人間を美化する。そして悠久の時が過ぎ去る。

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