Oct. 31,2013 Thu    ポートピア’81 ダイエー館同窓会(3)
 
 同窓会に出席する楽しみはとりとめない話と笑いである。この案件はどうとかの話に一片の楽しさがあるとは思えない。ほかのどこを探しても得られることのない安らぎに似たざわめき、案件の乾燥とは別種の潤い、それが同窓会である。その点、ポートピア・ダイエー館の同窓会はある意味「同窓会」の理想形かもしれない。
 
 同窓会、同窓会とばかり業腹な、同窓会で食っていけるか、などとのたまうなかれ、同窓会は食っていくときの潤滑油であり、調味料なのだから。そしてまた、同窓会で現在の自慢話をするなかれ。自分で自慢話をせずとも人にさせればしたのと同じ。語るなら現在だけではなく過去も語れ。過去は変えることができず、こんなにわかりやすいことはない。
追懐はデジタルカメラで撮った写真のごとく色あせない。過去を語るから昔の自分に戻ることができる。過去も語れず、昔の自分に戻れない同窓会なら小生は御免被る。現在オンリー人間は同窓会ではなく、案件、事案の渦巻く職場に行くのがよろしかろう。
 
 現在を語るのなら、いったん決まったものは何年たっても変えない、変えるのはブレるに等しいみたいなことでなく、安全が担保された上で国民所得全体のかさ上げに役立つなら変えていきましょう、みたいな話が的確であろう。過去を語ることが問題なのでなく、人間が過去型で旧態依然なのが問題なのだ。
 
 ダイエー館同窓会で最も残念なのは、ダイエー館支配人だったIMさんが出てこないことである。いわく言いがたい事情があるのだろう、仕方ないとあきらめているけれど、IMさんのいない同窓会は元コンパニオンの活気、追懐を半減せしめる。IMさんほどの熱血、行動力を持つ人はすくない。
コンパニオン研修中こんなことがあった。研修半ばごろ、毎月の所得13万円+αのαの部分が約束とは違うのではないかという話をHさんほか数名が持ちだし、有志何人かでダイエー側に切り出そうと言っていた矢先、研修生の休憩所に突然入ってきたIMさんは「そんなにイヤなら辞めてしまえー!」と大声で怒鳴った。
 
 Hさんも興奮してコンパニオン全員に向かって言い放った。「それなら辞めましょう!」。お互い言いたいことを言ったかたちではあるが、辞められたら困るし、辞めたら困る。赤くなっているIMさんとHさんを傍目に青くなっているコンパニオンが数名いた。各人のアタマのなかに、いまさら新規募集しても神戸博ポートピア81のオープンに間に合わない、せっかく応募して採用されたのに、研修までうけて辞めるのかという文章が浮かんだ。
 
 数日後IMさんは上と相談して給料15万円ということで決着したと言い、コンパニオンは歓声をあげた。ダイエー側はポートピア閉幕後、プラスα半年分のボーナスを支給する予定であったという。結局、半年後にまとめて支払われる金額を分割で毎月受け取ることになったのだ。そのほうがわかりやすいし、得なのだろう。途中でやめたらボーナスはもらえない。
 
 そういうことがあって1981年3月20日、神戸ポートピア博は開幕した。そしてダイエー館はたちまちのうちに超一番人気のパビリオンとなった。オムニマックスという日本初の大スクリーンに映しだされる映像は迫力がありすぎて気分の悪くなる人もでた。音楽担当は松岡直也、待ち時間は常時5〜8時間(最長10時間半)、連日長蛇の列ができた。
IMさんは支配人としての監督業務のかたわらVIPルームに入った財界、芸能界ほかの著名人と案内役のコンパニオンのツーショット、スリーショットを撮りまくった。詳細は述べないが、モナコ公妃グレース・ケリー、三船敏郎、坂東玉三郎、岡田眞澄、セーラ、渡辺文雄、小山明子、武田鉄矢など。
 
 開幕前はそれほど予想しなかったメディアへの対応にも追われた。各局の取材申込とテレビ出演にコンパニオンのだれを充てるか、日々の業務に支障をきたさないよう勤務表とにらめっこし、これはと思うコンパニオンを選んでいく。全国ネットのバラエティ番組、ニュースほか。電話でのメディア対応はオムニマックスを企画した広告代理店「大広」の女性社員KYさんがあたった。
メディアの予約申込が殺到したため、IMさんはコンパニオンの手配におおわらわ。24名のコンパニオンは2交代制で、その日オフの人もいるし、オムニマックス・シアターとVIPルームなどの担当は別々に組まれているから、テレビ、ラジオの取材に対応できるコンパニオンの人数は限定される。突然の賓客の訪問にも対応しなければならない。
 
 IMさんは迅速、的確に対応し、対応できないときはコンパニオンの手を借りた。コンパニオンは内心こんなことまでと思いながら協力した。小生なら、業務の範囲をはるかに逸脱しています、別途手当を支払ってくださいと要求しただろう。
夜おそく帰宅したらIMさんから電話があり、あしたテレビのインタビューがあるからこれこれの発言をして、あとは適当にやってくださいと言う。バラエティ番組の横断幕をあしたまでに作って持ってきなさいと大きな白い布だけ渡されたことも。頼まれたコンパニオンはタイヘンと思ったが、IMさんの明るさが面倒を引き受けさせてしまう。コンパニオンの性格もよかった。そういう時代だった。
 
 さまざまなドラマがあったことでコンパニオンの輪郭は鮮明になる。彼女たちの多くはまだ50代前半、いまは年齢的に女性特有の美容の話に花が咲く。気づいている人も気づいていない人もいると思うが、いつか、そう、60代になればわかるだろう。1981年3月20日から9月15日の半年は栄光と喝采の日々であったことに。果たした役割のすばらしさに。
最終日、オムニマックスの最終回、最後の案内役をつとめたOさんは挨拶で声をつまらせた。観客席から声があがった。がんばれ、と。何人ものコンパニオンが泣いていた。ダイエー館閉館のときがやってきた。
 

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