Apr. 26,2013 Fri    桃源郷
 
 先週、今週とつづけて2本映画をみた。「天使の分け前」と「カルテット!人生のオペラハウス」で、天使の分け前は2012年6月英国で公開され、映画の舞台がグラスゴーとエディンバラなどということもあり、スコットランドを旅した者にとってある意味必見といえるのかもしれない。
主人公と彼にからむ共演者は若いけれど、天使の分け前(The Angels' Share)=「ウィスキーなどが樽の中で熟成されている間に年2%ほど蒸発して失われる分のことで、年数をへていくにしたがって味わいも豊かになり、天使の分け前も増える」=ということを伝える役目として過不足はなく、本来的な意味に加味される分け前も、人は受けた恩を返して成長するといってしまえばそれまでだが、映画の演出は洒脱でさわやか、そして温かい。
 
 「カルテット!人生のオペラハウス」はイングランド・カントリーサイドのビーチャム・ハウス(引退した音楽家が暮らす高級老人ホーム)の日常と元オペラ歌手4人を中心にしたドラマで、監督はダスティン・ホフマンだが、そんなことはどうでもよろしい、ハウスを取りまく美しい自然とほどよく手入れされた広大な草地・庭をみているだけでホッとする。自然にも庭にも長い時間が込められているのだ。
 
 庭園はちょっとねという御仁は、本物の元オペラ歌手グウィネス・ジョーンズ(1936− いまだに美女)も特別出演しているからそちらを堪能するのも一興、ひとときヴェルディの音曲にひたるのも、持ち味の異なる英国老優4人の芸をみて来たるべき老境に思いをはせることも可。
自意識過剰、気位が高い、あるいはお通夜ふうの集まりは避けて正解、仲間うちに天然ぼけとか大ぼけがいないと会話のはずまないこともあるけれど、それはそれ、自然な流れができるまで待てば海路の日和あり、ご託を並べてみても全員順不同に天然記念物となるのは時間の問題、特別長く生きすぎてオオサンショウウオ化することなかれ。
 
家内の中学時代の同窓生・男女8人が集まって昔話をしている最中、「ところで、O君どこの中学校やった?」と質問した女性がいた。訊かれたO君もほかの仲間も一瞬唖然、のけぞって笑い出す者もいた。その女性、大阪市内で喫茶店を経営していて、3年くらい前のある日の夕刻、同窓生の一人Y君が久しぶりに訪問したけどあいにく閉店後。仕方なく近所の人に尋ねたところ、自宅は喫茶店の隣ということで呼び鈴を押し彼女が出てきた。「○○です」と彼が言っても応答なく不審顔。再度「○○です」と言うが、「え、×÷∇さん?」とロレツが回らない。
 
 そこでY君はA4判に引き伸ばした遠足の集合写真を取り出した。そして自分を指さし、「ここに写っている○○です」と言う。女性は自分が写真のなかにいるかどうか確かめながら「あ、」と思い出したような顔をする。なに、Y君がそう名乗っているから調子を合わせただけなのだ(実は思い出せない)。
女性はY君の父親の経営する工場に遊びにいったこともあったし、Y君とは小学校も同じだった。遠足の写真を引き伸ばしたのは小生、Y君の要請で家内が郵送した分を、不吉な予感が走ったのかY君が喫茶店に持参したのである。O君の一件でその女性の生態、記憶回路を理解しY君は胸をなでおろしたにちがいない。
 
 別の女性は、この冬、O君宅での小さな集まりに参加した家内やO君が撮影したアルバムを見て、O君が描いた絵(畳一畳よりやや大きい=彼は画家)やほかのものには目もくれず、テーブルに並んだ料理に「へえ、O君の家に遊びに行ったらこんなご馳走でるの」と叫ぶ。O君が黙っていると、「奥さんがつくったの?」という。料理のようすで仕出し屋のものとわかりそうなものであるが、しかたなくO君はこたえる。「‥弁当」。
 
 「ところで」の女性は往時にもまして名物女になりつつあり、中学校はどこと質問されたO君は数日後「楽しかったもんね」と話していたらしい。このあたりが大学のOB会とちがうところで、どちらが傑作かといえばいうまでもないだろう。それはもう昔の隣近所のおつきあいであり、こんな話はもっと若いころなら愉快でなかったかもしれないが、高齢化寸前だから笑えるのだ。盆と正月が一緒に来たような会話に、だれも傷つかず、不快に思わず、また会いたいと思うのである。
 
 多くの謎を解いてきて唯一解けない謎は、深くもないのに馴染んだ人を忘れられない心の謎である。40年も経てば往時の面影を期待する者はいない。同窓会出席のキーワードは「会いたい」、もしくは「会わなければ」である。そういう気持ちがほかの気持ちに勝つ。老いるのはあなただけではない。老いは不可避であるとして、朽ちてゆく途上にひそむ爛熟のかけらと春の匂いを感じる感性を私たちは保持している。
 
 旅の果実について伝えたかった相手はみな死んだ。旅の果実を共有する唯一無二のパートナー・家内の健在が支えである。心のなかで死者に語りかけることはあっても、死者は生者より雄弁だとかなんとか、きいたふうなことを述べるつもりはない。しかし耳をそばだてれば死者はなんと多くを語ることか。
 
 自分でも気づかないうちに人は自らのミスを修復することがある。屈託のなさが意図せず笑いをさそい、痛んだ傷は癒やされる。その町に、そこに集う人々に、みたとおりのものが存在するすばらしさ。人を癒やし、ときに人を救うのは決して表に出てこない人々である。あしたのことがわからなくなるくらいの年齢に達したころ初めて桃源郷はあらわれる。桃源郷は再訪できないというが、その理由もそこにある。

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