Mar. 07,2013 Thu    インドからの手紙 ドラマの周辺
 
 ことしに入って目のさめる名演技を劇場やテレビでみた。演技は演技と感じさせるようではいけないのであって、上手に演技してるでしょうみたいな演技はいうまでもなく評にかからない。熱演と感じさせるような演技は疲れる。
おでんの大根は熱いだけが能じゃない。巷間しばしば喧伝される「熱演」ということばは演技のなんたるやを知らない論者の常套句。うまい役者は観客を疲れさせず、どよめかせる、舌を巻かせる、感嘆させる、解き放つ、高揚させる、心を奪う、うっとりさせるといった状況を創出せしめるのである。
 
 2011年にフランス+ドイツ+ポーランド+スペイン合作の「おとなのけんか」なる映画が製作された。表題からお察しのごとく子どものけんかにおとなが出てきておとなげない喧嘩をする。ケイト・ウィンスレット+クリストフ・ヴァルツ、ジョディ・フォスター+ジョン・C・ライリーの二組の夫婦のやりとりがみもの。脚本がよく、役者がそろうとドラマはおもしろくなる。
 
 なかでもオーストリア出身のクリストフ・ヴァルツは絶品。近年、駄作「三銃士=王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船」のリシュリュー枢機卿役で唯一うまいところをみせたが、「おとなのけんか」で本領発揮、あれよあれよの80分、はじまったと思ったら終わっていた。どれくらいうまいかというと、映画をみている気分ではないくらいと言っておきましょう。
 
 2011年の英国映画「マリリン・7日間の恋」のマリリン・モンロー役ミシェル・ウィリアムズにからむのはローレンス・オリビエ役ケネス・ブラナー、ジュディ・デンチ、デレク・ジャコビなどそうそうたる顔ぶれの英国俳優であり、ミシェルはプレッシャーにめげず健闘した。
容貌も風合いも似ているとは思えない彼女がムダな動きをせず、かわいい動きと姿態でモンローに接近したのは正解。モンローの滞在先をロンドンではなく郊外のカントリーハウスふうの瀟洒な館にしたのも的確。だから小さな池の水遊びが自然であるし、生かされる。
 
 モンローの真骨頂は色気ではない、かわいさなのだ。色気の寿命は短く、かわいさの寿命のなんと長いことか。かわいさの質は異なるとして、3歳年下のオードリー・ヘプバーンとともに20世紀に活躍した女優として後世に名を残すはずである。
「風と共に去りぬ」のビビアン・リーのような大作にはめぐまれなかったが、「ローマの休日」と「七年目の浮気」は色あせないだろう。ほかにそれらしき女優はイザベル・アジャーニだけである。
 
 ミシェル・ウィリアムズのモンローを魅力的でかわいい女と納得させるのはしかし主だった共演者ではない。通りすがりのヤジウマ、あるいはイートン校の男子生徒でもない。そこがこの映画のうまいところだ。
大詰め近くでモンローがパブに入ってくるシーンがある。
そこにいるパブのマスター。ジム・カーターがその役をやっているのだが、その表情をみているだけでモンローがいい女にみえてくる。ジム・カーターにセリフはいらない、気持ちを顔にあらわすだけで、魔法の粉をふりかけられたモンローは瞬時にいい女に変身する。役者の精神的指針の見事な発露。それだけで女優と自らを引き立てるのだ。
 
 何度も書き記したけれど、いい役者は観衆が自らの内面をみつめるための一助をなす。そういう意味で「マリーゴールドホテルで会いましょう」(2012年英国)は出色。国際線出発ロビーの椅子に並んで座る男女七人はそこにいるだけで出発ロビーが現出、人間模様も浮かび上がる。
映画の半分はそこで完成しているといってもいい。観衆が呼吸を合わせてしまうのは英国映画でおなじみのジュディ・デンチ、トム・ウィルキンソン、マギー・スミス、ビル・ナイほかの中高年。
 
  60代後半から70代前半の英国人男女7人が滞在するのはインド・ジャイプールのホテル。それぞれがそれぞれに曰くいいがたい事情を背負っている。順風満帆であればだれが好きこのんでジャイプールくんだりまで行くだろう。
 
 1973年8月、20代半ばでインドを旅し、ジャイプールにもウダイプールにも入った小生をして当時を追懐させるまもなくドラマは展開する。彼らはほとんど述懐しない。述懐や説明はできのよくないドラマに任せて彼らの行動を見なければならない。行動が過去のありようを示し、現在を照らす月明かりとなるのである。
 
 性格的に屈折のみられない人でも局面によって屈折する。小生はMさんと訣別するためにインドへ行った。屈折した心は折れそうになっていた。Mさんはかつて早稲田大学文学部東洋史学科に在籍し、古代インド(インド+パキスタン+アフガニスタン)の仏像を研究していた。彼女のすがたが美しくみえたのはムダな動きをしなかったからだ。
 
 あのとき、小生の離日と彼女の帰国はほぼ同時期だった。計画性がないと思われていた小生が綿密な計画を練ったのはそのときが初めてかもしれない。が、このときの計画たるや計画そのものが挫折の産物というほかない。
 
 現実はインドから逃避する。インドが現実を避けるのではない。好きも嫌いもない、インドはすべてを包みこむのだ。それゆえ逃げたくなる、包みこまれないために。インドへ行くと特有のにおいと色に包まれる。ほかの熱帯亜熱帯地方では、原色あるいは素のままで鼻や目にこびりつくそれらに違和感をおぼえるのだが、インドでは、あのイヤな色とにおいでさえ許容せざるをえなくなる。たとえ豊穣と神秘、華美とエロティシズムに満ちあふれていたとしても、まっぴらごめんこうむりたい。だがインドは容赦なくある問題を投げかける。人間の本質はなにかという問題を。 
 
 黄昏をむかえた人間が生の深淵をのぞき見すると、代謝の盛んな若壮年には見えなかったものが見えてくる。それは経験の蓄積に依拠するといった一面のほかに、代謝が劇的におとろえ終焉が近いからで、自分自身が特段かしこくなったというわけのものではない。
 
 1973年9月、Mさんからの手紙を何度も読んで、ほぼ全文を暗記してしまった。手紙を持ちつづけるのは女々しいというより繰り返し読むことで未練がつのり、心がくだけてしまうから破り捨てよう、そう思ったができなかった。肉筆の文字はMさんの血であり、手紙はMさんの肉体なのだ。
にもかかわらず手紙をすべて送り返した行動を愚行といわずなんといおう。そうまでして記憶の彼方に追いやったのに、インドで撮影された映画の秀逸さが手紙の文言を呼びさますのである。
 
 
 『 絵はがきのよいのがないので書くのが遅くなりました。カルカッタに帰れば博物館でよいのを買えるはずですが、そうするとあたしのほうが先に帰ってしまいそうなのでこういうことになったわけです。
今日は8月の6日で、この国の人たちと自然になれてきたところです。明日から三日間ひとりになります。それからカルカッタでほかの連中とダージリンに行くことになっています。いろいろな感想がでてきてもまるっきり浮かばないというのは、カルカッタに着いて2,3時間の印象があまりに強かったせいだろうと思います。
 
 ベンガルやオリッサの人間、そしていまベナレスあたりの人たちを見て、違っているところより似ている点が目につきます。似ている点はもう日本人とも共通しているわけで、つまらない結論になるわけ。
11時を過ぎてだいぶねむくなってきました。サルナート博をみて、それからベナレス見物。船にも乗ってみたり、門前町を歩いたりで、さすがにくたびれ気味。3ページもあるのを書きはじめるといろんな本音がでてきそうだけど、からだはまったく好調子を続けています。あたしのことを鉄人28号という女の子がいます。それでよけいにからだには気をつけているのです。
 
 直射日光が強くて、顔にベタベタ塗りたくってないとダメなのがいやだけれど、空気は都会でも澄んでいるし、涼しい木陰がどこにでもあるので東京よりもしのぎやすい夏であります。ハナがむずむずしない毎日は快適です。もう言うことはないみたいだけど、ブランクのままだすのも惜しいようなめんどうなような。
こう書いていたらほかの女の子たちが「タフねえ」と一斉に声をかけたので続けることにしました。今日の昼食はベナレスの中華料理店でとりました。つめたいおいしい水があって、野菜スープは実にグーで、みんなガツガツ食べて、食後のアイスクリームに狂喜して帰ってきました。
 
 カレーは手で食べるとその味がわかるということがわかったので、手がよごれてないかぎりインド式でやっています。愛する食べものはまずアイブから始まるそうです。絵はがきをだす気はおこらなかったけれど、やはり気になるので、はがきのよいのを探したり、それでも見つからなくてよけい心配になってエアログラムを買うためにうろうろしたり、今夜はこれを書いてホッとして。
大阪の放送局の結果はどうなったのか知らないけれど、きっといまもフラフラしているだろうと思うと非常に不快になってしまう。思い出すだけでもぞっとする大阪弁が消えていないからだろう。それなのにこうやって書いているのも気にいらないことだ。そう思わせないように手紙でなく絵はがきを注文したんでしょう。バカな男め。あたしは心配しがいがないほど丈夫で、運も悪くないから元気はつらつ、日本の地をふたたび踏むはずです。インドで死んでもいいなあといまは思っています。
アーカンベー 』
 
 
 手紙は訪印中に届き、読んだのは帰国した後だった。名文は暗記するに易しとはよくいったもので、苦もなく暗記できた。文章の確かさがタフさを裏打ちしていた。
 
 Mさんが連絡してきても、下落合のマンションにスペアキーで入ってきても、男はいない。事の顛末を知ったMさんは愕然とするだろう。Mさんが何を言っても無視し手紙にも一切返事しない。決心はゆるがなかった。ゆらぐどころか追い打ちをかけた。正しい行動が未来への扉を開く、そうあるべきはずが、自らを貶め、未来への扉を閉ざす行動をとりつづけた男は行き場を失い、1ヶ月後の1973年10月、モロッコへ逃亡した。
 
 その後Mさんから2通の手紙が届いた。最後の手紙の日付は1974年1月20日。
心配することも愛することも、あきらめることも、試練に立ち向かうことも強靱な精神に根ざしていた。そして忘れたころに魔法の粉でかわいくなった。
あれから途方もない時間が過ぎていった。しかし一瞬だったのかもしれない。マリーゴールドホテル滞在者は過去の、あるいは現在未来の私たちである。滞在者を再生させるのはドラマなのである。
 

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