Feb. 21,2013 Thu    寸劇 ドラマの周辺
 
 あれはいつだったか、記憶が正しければ1982年から1992年にかけて10年間、5月&10月の年2回、観衆120〜150人の前で40分ほどの寸劇を上演したのは。
制作者・脚本・出演者全員初めてということもあり、子どものころみたことのある「西遊記」に若干の変更をいれて「異聞西遊記」をやった。これが思いのほか好評で次々回に続編を上演することとなった。
 
 「異聞西遊記」の出演者で出色だったのは金角をやった田野秀則さんと銀角をやった近藤恭子さんだった。二人に共通していたのは快活、陽気、おおらかさ。その類似点のせいかピタリと息が合っていた。セリフの間のよさ、退場するときの滑稽味ある所作、ちょっとした仕草にもムダな動きがなく、観衆の喝采を浴びた。
 
 稽古は通常日曜の夜おこなわれたが、上演日間近の土日祝日・昼間におこなったこともある。当日の昼食、夕食は裏方が手分けして幕の内弁当10人分をこしらえてくれた。なに、裏方といってもふだん顔を合わせている年上の中年女性である。
 
 なかでも私たちがオババと蔭で呼んでいた木村孝子さん、正真正銘のオババ坂本槌重さんのつくった弁当は仕出し屋のものよりずっとおいしかった。木村さんは大正14年生まれで岡山市出身、坂本さんは明治44年生まれで神戸・元町出身。
 
 西遊記の稽古時、金角役の田野さんは天山山脈をテンサンシャンミャクと言った。横にいた近藤さんが「いまなんていった」と聞くと「テンシャンサンミャク」とこたえる。そして次の稽古のとき「テンサンシャンミャク」と田野さんは言っていた。
 
 サシスセソのサシスは発音しにくいこともあって、安倍首相や菅官房長官がラリルレロのリルをうまく言えず、アルジェリアをアリジェイアとかアルジェイアとか言うのと同じ。田野さんは本番でテンサンシャンミャクと言っていた。西山優喜子さんの子=2歳半の女の子=は稽古時、小生と小島正和さん演じる妖怪をみて、「恐いのオジサン」と言っては泣いた。
 
 「地蔵物語」とか「異聞源氏物語」など時代劇もやった。衣装(男性用の袴、直垂、狩衣、女性用の十二単衣ほかの着物)はどうにかなったが、カツラと鎧は元俳優で東宝に勤めていた大崎さんの協力をえて数種類借りた。特に落武者のカツラを借りることができ、ありがたかった。
 
 ヨーロッパ中世〜近世の歴史物も何度か上演し、衣装は手作りだった。木村のオババは和裁をなりわいとしており、洋裁もこなす便利屋、ローマ法王や枢機卿の法衣の赤・黒・白のビロード、騎士となる公爵伯爵の光沢あるブルー・ベージュの化繊をどこかで見つけてきて、谷沢忠義、小島正和ほかの方たちの採寸、仮縫いをテキパキすませ、見た目絢爛豪華な衣装づくりを苦もなくやってのけた。
谷沢さんは日本人離れした風貌をしていて、鼻高で色つやがよく、目も大きく、押し出しもいいので赤の法衣にかぎらず衣装負けしなかった。
 
 谷沢さんが大受けしたのは、博多を舞台にした現代劇の本番で「名前、なんどしたか」と京都弁でたずねたことである。共演者の娘の役名を忘れたのだ。その娘役は家内だった。
この劇で近藤恭子さんは谷沢さん演じる舅の長男の嫁(近藤さんは谷沢さんの9歳年長)。借金3千万円の肩代わりするというセリフのところで3千円と言ったらば、大向こうから「3千円やったらわたしでも返せるよ」と女性の声が飛んだ。そこですかさず近藤さん、「3千万なんてお金、持ったことがないからまちがえた」。
 
 脚本の多くは自宅で書いた。「騎士物語」のパート2は舞鶴=小樽間往復の新日本海フェリー客室で書いた。1980年代は28時間要したがいつのころからか約22時間にスピードアップされた。
海を見るだけでは時間がもたず、夜の海は月や星々のあかりにたよらなければ漆黒の闇。朝昼晩3食付きのキャビンなので食事時間を係員に伝え、食事時間寸前になるとキャビンの内線電話に連絡が入り、特別室専用レストランに直行すればいい。
 
 騎士物語1〜2のテーマ音楽は「夕映えのフィレンツェ」である。騎士物語のBGMはほかにも「ペルシャの市場にて」(A・ケテルビー)より「修道院の庭で」、「ファントム・メロディ」、「ペルシャの市場にて」(E・ロジャース指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)とか、「ペール・ギュント」、「三角帽子」、「ローマの松」、「ウィリアム・テル」序曲より「詩人と農夫序曲」、そして「メヌエット」(J・S・バッハ)、「アルビノーニのアダージョ」などをつかった。
 
 ファンファーレは、荘厳さをアピールするときは「レオノール序曲第2番」、「スペイン綺想曲」などから、軽快さが必要なときは「カルメン」や「歌劇金鶏」のファンファーレを借用した。
効果音はNHKから「効果音集」が何本か市販されていて、暴風雨、木枯らし、室内で聞く風、窓ガラスをゆする風、どしゃぶりの雨、雷雨、遠雷、急流、小さい流れ、滝ほかよりどりみどり。それ以外にもポニーから「サウンドアルバム野鳥編」、コロンビアから「効果音ライブラリー動物・鳥・虫」といったカセットテープを入手でき、大いに役立った。
 
 小道具のなかで小中学生に人気の高かったのはフェンシング。これも騎士物語の殺陣に6本つかわれた。西洋チャンバラの場面に彼らは目を輝かせ、身を乗り出して見ていた。身を乗り出したのは小中学生だけではなかった。うしろのほうで見ていた倉敷の開業医夫人、尾道の開業医夫人は立ち上がって目を大きく見開いていた。
 
 なぜそうとわかったのか。私も出演者のひとりだったからだ。「詐欺師とペテン師」でペテン師をやったこともある。松山政路と結婚し劇界から退いた紅景子も二度その場に居合わせた。後方に陣取っていた彼女も滑稽なシーンやシリアスな局面になると立ち上がり、何か言いたそうな顔をして見ていた。
 
 寸劇上演が終了してしばらくたったある日、何人もの人たちから「またやってください」という声が上がった。「あれとあれは見ていないのでぜひ」と再演をたのまれたときは胸がつまった。さまざまなことが終焉を告げていた。
 
 表舞台から降りる時が近づいていた。
稽古した人たちは同じ時期の4月と11月にハイキングをともにした仲間でもあった。同い年の田野さんは私を支えつづけてくれた友であり、寸劇に欠かせない役者でもあった。よくとおる野太い声とがっしりした体躯はまさに舞台向きなのだ。
 
 稽古風景を追懐するにつけある種の感慨にみたされる。寸劇の常任ナレーターは妹だった。ナレーター専門の妹が一度だけ出演した寸劇がある。弟扮する詐欺師と、私扮するペテン師の上前をはねる女詐欺師役である。その意外性に客席はどよめいた。妹は昨年12月に62歳で旅立ち、熱心に寸劇をみてくれた家内の姉も昨年8月、63歳で宇宙旅行の片道切符を手に入れた。
 
 観客や、出演者の多くもすでに眠りにつき、裏方料理人もいまはない。
京都六盛の手桶弁当が出始めのころ、下鴨茶寮や萬亀楼がほとんど無名のころ、あるいは菊水楼や京大和、大阪なだ万、そしてまた湯布院玉の湯、山中温泉花紫の名が知れわたっていないころ案内してあげたことに味をしめ、どこへ行くにも一緒に行きたがった木村のオババはしぶとく生きているかもしれない。オババの一人息子は私より一歳下で、東北大を卒業しアラビア石油に就職、長年サウジアラビアの首都リヤドに駐在した。
 
 田野さんがしんみり言った、「祭りの後の寂しさか」。ことばは言う人によって響きかたが違う。ことば自体は陳腐であるとしても、快活でやさしく、頼りがいのある男のことばは耳に残って離れない。
回を重ねるごとにうまくなってゆく共演者。観客との一体感にゾクゾクしたあの日。あれから何年たったろう。季節はめぐり、人はめぐり、とどまることはない。

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