Feb. 10,2013 Sun    「24」 ドラマの周辺
 
 「24」がおもしろいという評判は以前から知っていた。10年くらい前だったか、一度みたこともあった。主役はドナルド・サザーランドの息子キーファー・サザーランドだった。父子は性格俳優といってよく、演技に定評があった。息子は父親のように主役を食ってしまうほどでもなく、「スタンド・バイ・ミー」(1986)のエース・メリル、「三銃士」(1993)のアトスの演技も光っていたが、当時、興はおきても週一回のドラマをみつづけるのは荷が重かった。
ジョージ・クルーニーがでていた「ER」はそれでもT〜Vまでみた。一話ごとのストーリー展開はあわただしいところもあったけれど緩急がほどよく、ロス役のジョージ・クルーニーが光彩を放っていたからである。ふつう色男にいやされることはまれであると思うが、ロスは人をいやす何かを持っている。
 
 「野望の階段」(英)、「プロヴァンスの秘密」(仏)、「修道士カドフェル」(英)、近年では「ボードウォーク・エンパイア」(米)といった連続ドラマの登場人物は、人間の彫りさげかたの深さ、複雑であっても鮮やかな人間像とあいまって、うつろいやすい時代を超えてみる者を魅了する。いい役者は観衆が自らの内面をみつめるための一助をなすというが、正鵠を射ている。
役者はくたびれはじめてからがおもしろい。くたびれて、わがままがでて、人間関係に衝突や葛藤が生まれて味わい深くなるのである。解けないパズルのおもしろさは引き出しのつまみが消えたコーヒー挽き器である。コーヒー豆は出せないし、分解して元にもどる保証はない。どうやって生き、どうやって死んだのかもよくわからない、そういうものである、人生なんて。
 
 「24」=この種のドラマが日本でつくられることはないだろう。制作者、俳優、視聴者の多くは平和ボケしており、緊迫感にみちたドラマをつくりようのないこと、国内にテロリストは存在しないこと、何かの間違いで制作されたとして誰も演じえないこと。制作者は甘っちょろいドラマしかつくれず、新劇俳優は一部を除いてホームドラマさえ十分に演じることのできない大根。米国新進俳優の多くも同様、動き、表情にムダが多く芝居がクサい。
大根芸の肉体がくねったり、そったりするのとは対照的に含蓄のある芸は過去を演じても現在と未来を表出し、滅びゆく肉体にも独特の風情と憂いを残す。大根芸はくねるのもそるのもただそれだけで、背景にこびりついている苦悩を表現することはない。名優の魅力はある時、ある瞬間の決定力に集約される。観劇のあと情事をねだる女が一瞬かがやくような。
 
 「24」のストーリーは重層的かつ迅速に展開する。米国内で発生する連続テロと戦う主人公ジャック・バウアー(キーファー・サザーランド)は愛すべき人間とはほど遠く、上司の命令に逆らう。いやされることは望めず、孤独に直面することおびただしい。自分に正直であるということはすなわち孤独と寂寥を引き受けてゆくということだ。
他方、ある種の交渉力と粘り強さ、決断のはやさ、経験に裏打ちされた勘のよさがジャックの真骨頂であり、急場をしのいでくれる人なのである。先読みができて猜疑心のつよいジャックはウソを見抜く能力に長けているが、信頼している人物に裏切られることはある。巷にはなにかといえば裏切りということばを濫発する人がいる。瀬戸際に立たず気安く裏切りというなかれ。信頼もしていないのに裏切りとは何事か。裏切りは信頼という母から生まれる逆子であってみれば。
 
 ジャックの孤独と懊悩は楽しかった思い出をもよみがえらせることはない。なにもかも忘れたいという状況においては楽しかったこともかなしみを増幅させるだけであるからだ。不幸な人間が、因習と確執でがんじがらめになっている組織を変えてゆく突破力もリアル。人は本能的に不正を隠す。人はしかし正義に目覚める。身内が足をひっぱり、国家や企業が正義にふたをしようとしても。ここでの正義は七面倒くさい議論や理屈ぬきの正義のことなのであるが、具体的な言及はしない。
 
 ジャックのほかにこれはと思える登場人物がいる。部下で朋友のトニー・アルメイダ、上司のジョージ・メイソンとビル・ブキャナン、同僚のミシェル・デスラー、部下のクロエ・オブライエンなど。彼らは自らを知っている。どんなに有名な者でも自己を知らぬものはかなしいと言ったのはだれであったか。けだし名言である。
パソコンの達人クロエ・オブライエンは24シリーズ後半に登場する。見るからにわがままそうな発散型の若い女が徐々に変身する。おそらくクロエ自身も気づいていないだろう。ジャックが国家と国民のため危険をかえりみず果敢に挑んでゆく姿勢に心を動かされるのだ。そのプロセスは自然で一切のムリはなく、気づけばジャックとともに行動している。
 
 「24」のパソコンの使われ方が実にいい。衛星通信による画像分析、車両追跡、人物特定、熟達プロファイラーによる暗号解読、こわれたファイルの復元など息つく暇もない。テロリストを扱うドラマはともすれば不自然な箇所がころがっていたり、無理があったりもするが、「24」は細部におよんでも無理はなく流れも自然である。私たちの周辺には優秀であっても問題をかかえる人たちがいる。そういう人たちはしかし、いざというときに力を発揮することもある。
 
 米国大統領の統率力、危機管理能力もくりかえし問われる。同時多発テロや外交政策の違いをめぐって対立する二国間に一気に高まる緊張感。安倍(晋三)さんがみたというレンタルビデオには「24」もあったのではないだろうか。安倍さんを評して地獄をみてきたと述べた人がいた。ジャック・バウアーにあって安倍さんにないもの、それは報われることのない生き方かもしれない。
 
 「24」はある日、24時間におきた24回のテンポの速いドラマである。それはシーズンTからシーズン[までつづく。これまでのドラマや映画は回を重ねるごとにだんだん面白味が薄れていった。が、「24」はシーズンごとにおもしろくなっている。やっとシーズンXまでこぎつけたが、TからXにいたるまで脇役にも実力ある俳優を配し、さらに、よくできた英国映画にみられるような、セリフが一言しかない俳優やセリフすらない俳優もぬかりなく選んでいる。「24」の脚本担当と監督について久しぶりに天才ということばを思い出した。
 
 彼らは近未来の米国について、あるいは脅威となる中国について多くを予測し的中させている。「24」をみればだれにでもわかることである。わかっていても実現困難なのは、国家を守るとは、愛する者を守るとはどういことか、それらは両立しうるのか、極限状態におかれたとき、迷いの淵に立ったとき道を見誤らず進むことはできるのかということである。人生と社会の不条理、人間の絆、貫徹力を描いてこれほど惹きつけられたドラマを私は知らない。
 
 
※「24 シーズンT〜[」は昨年下半期からWOWOWで一挙放送中 24話=2日間の放送をBDレコーダーに録画し4日でみるというパターン。「24」を何度かみていると各回のエンディング音楽でさえもの悲しく聞こえるのはなぜだろう※

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